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今はまだ触れられない「永遠」に辿り着くまで

定年を目前に控え、二拠点生活の開始と独身生活にピリオドが打たれ、
新たな暮らしが始まったことは この記事 にも綴った通りです。
 
そんな私が 「永遠」 は有るのか、無いのかと問われたら、
「無い」 というのが今のわたしの答え。
 
 
ロマンのない書き出しで申し訳けないのだけど、勿論それには、
 

「永遠」 が自分の身に起こり続けていたら、二拠点生活も独身生活への
ピリオドも実現しなかっただろうな、と思うから。

ずっと強い人だと思っていた人が、本心を明かせず壊れてしまう姿を
見てしまったから。
 
そしてもう一つは、つい今まで一緒に旅行を楽しんでいた友人を事故で
亡くすという体験があったから。


といういろいろな理由があります。


             *
 
 
ここで言う永遠とは、
「ずっと変わらずそのままの状態が続く」 ことで、
 
同じステージに留まり続けるのはきっと楽しくない、と感じたり、
「この風景」 が一年後もずっとそうだとは限らない、と知ったり、
 
そういうことを経て、「永遠は無いもの」 と思うようになりました。
 

目の前から友人が消えた夜に見た景色

冒頭、友人を一人亡くしたことを綴りましたが、

それは今からもう30年以上も前のアメリカ留学中の夏休み、

自分を含めた6人でのニューヨークからフロリダまでを
車で縦断する
旅の途中の出来事でした。
 
 


それは夜間に起こりました。


気づいたら私たちは真っ暗な路肩の空き地(だと思う) に投げ出された状態で
横たわっていました。救助の方が到着し、救急車で病院に運ばれるまでは

自分の身に何が起こったのか全く理解できませんでした。 
 


幸い奇跡的に大きな怪我はなかったのですが、衝撃のせいで、

短かい時間でしたが私は自分に関する記憶を失いました。
 

はっきりわかったのは、「自分が誰なのかわからない」ということだけ。

そして、それはとてつもない恐怖でした。
 
 


そういう私に救助隊は何度も根気強く、私の名前やどこから来たのかなどの
質問を投げかけて下さって、そのうち徐々に自分のことを思い出しました。
定かではないけれど、時間にしたら1〜2時間のことだったと思います。
 



そこから状況を把握するまでさらに数時間。

私の意識が戻ったことを確認した病院の方から

「少しお話があるんだけど、いい?」と前置きがあった後

静かに友人の一人が亡くなったことを聞かされました。





" 明日は今日の続きだとばかり思っていたけど
 
それは絶対ではない ” 



強烈に迫り来るフレーズでした。
 


「永遠は無い」に救いをみた30代


生きている限り、

「永遠」に触れることはできないだろうという気がします。

それは、私たちが時間の中を変化しながら生きているから。


 
今、「明日の予定はどうしよう。」と思った次の瞬間には
 
「ランチは何を食べようかな。」と淀みのない思考や意識が湧いてきて、

それに応じてアクションをすれば5分と同じ状態は続かない。
 



睡眠中でもそれは同じ。


体の細胞が代謝をしてくれるお陰で、髪が伸び、肌がターンオーバーし、

老廃物が腸に集まり、翌朝に備えるという ’生き物としての健全’ が

保たれる… 睡眠中も体の中は刻一刻と変化をしていて1秒たりとも

同じ状態ではいられない有機的な動き。
 
 



永遠は無い
 


この響きにはどこか寂しさが漂うものだけれど、
それでもかつて友人との
会話で
 
 

「永遠の命が与えられない私たちで良かったよね。」 



という着地でお互い一致し、ホッと安堵したことをいつも
思い出します。
 
 


妙齢.. をとうに過ぎた30代も後半の当時、お互い将来についていろいろ

語り合う中、
 


「80歳まで走り続けるのはシンドイ…」

「寿命があるから、時間内にいろんなことを終わらせたり、

 達成しようとしたりするのよね。」
 


そう。

私たちは、時間に限りがあることにものすごい救いを感じたのです。
 
 



長い間、私にとり 「永遠」とは、
固定であり、縛りであり、苦痛であり、
不自由さのシンボルでした。
だから、その中に居ることが怖かったのです。
 
 


でも、夢を叶えた今、新たに手にしてみたいと思ったものがありました。
 
 


それが 「すべての善を含む永遠」 でした。







「すべての善を含む永遠」 を手にするために

夢を叶えて、それでメデタシ メデタシ…
 
では案外終われないものです。これは夢が実現する前からわかっていたことでもありました。
 
’次に欲しいもの’ がわからず、見つからずで、意識がさまよっていることも知っていて、それがココロの消耗にもなっていました。
 
 
そんな時、ある地方のお医者様が放った一言に釘付けになりました。
 
 
時間の進行が止まろうとする ‘死の瞬間’ のイメージは永遠に続く
 
 
一語一句を正確に覚えてはいないのですが、大筋ではこのような
意味だったと思います。
 
ヒトが終わりを迎えようとする際、その脳はいろいろなことを
知覚するらしいのですが、このお医者様のこの一言は、
 

'死の瞬間' に抱くそのイメージが本人の ’死後’ にずっと続く
永遠の世界観の元になる

 
そう伝えているように私には聞こえたのです。
 
 
 
刻一刻と変化する今という時間の中に、 
私が「永遠」 を見ることは恐らくないでしょう。
 
でも、変化が起きなくなる「死」の入り口に、
「永遠」 を手に入れられるチャンスがある、と?
 
 
もしもそうなら、
その時こそ、私はそれを手にしてみたいと思いました。

死の入り口で知覚する私のイメージがそれに相応しいのなら
’あらゆる全ての善が含まれる永遠' を手に入れられるかも
しれないと思ったから。
 
 
あらゆる全ての善って?
 
私にとっての善は、私が大切に思う出会った全ての人たち。
その人たちの中に見る、温かさ、思いやり、叡智、才能、情熱、
尊厳、高潔、希望 ...
 
そのすべては丸ごと「善」そのものなのです。
 
 
正直、死んだ後のことなど確かめようはありません。
単なる妄想とも言えるでしょう。
 
 
でも、それでいいのです。
 

そう思うことで、明日への一歩が踏み出せれば。

'手にしたい永遠’ の中に身を置こうとして、
最期の時まで自分を育むことをやめない自分でいられるのならば。
 

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