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ストレスで死にかけて、でも生き延びた2020年を振り返ってみた

みなさん、こんにちは。
気づけば12月30日となり、あと1日で終わろうとしています。

誰にとっても今までとは随分変わった、苦労した一年だったと思います。


私にとっては、某ウイルスだけではなく
今までの人生で一番 精神的に追い詰められた一年でした。
よく生き延びたな…と自分でも感じています。

今、実家に帰省しているので 詳しいことを書いた手帳は手元にないのですが
思い出せる限り、振り返ってみようと思います。


1月、2月 上手く行かない就活に取り組み続けた月


2020年の3月に卒業を控えていたものの、ずっと就職が決まっていませんでした。
一年前の2019年3月から、就活講座を受けたり、企業研究をしていたのにも関わらず、一つも内定がありませんでした。

今振り返ると、HSP気質が強すぎたことが 原因かなと思います。
世間一般で当たり前とされる、週5日フルタイム勤務。
普通に生きているだけでも、周りからの影響を受けてヘトヘトなのに、そんなに働けない。世間での当たり前だけど、私には無理だと思っていました。

にも関わらず就職しないといけない気がして、必死に毎日就活をしていました。
正直とてもつらかったです。

毎日履歴書を書いて、面接練習や仕事を紹介してもらうためにハローワークに行き、本番の面接に行き…。そうして日々を過ごしていました。

事務系の仕事の面接に4.5箇所行ったものの 内定はもらえませんでした。
自分で、フルタイムは無理だと感じているのに面接に行くので、
受け答えでどうしても その気持ちが出てしまうのです。

上手く就活が出来る人は、ここで嘘をつけるんだろうなぁとも思いました。
でも 私には出来ませんでした。 




上手く行かない就活に、段々心が折れていきました。

どうして、他の人は幾つも内定をもらっているのに
私は1つももらえないんだろう…。

1年前から準備をしていたのに…。なんて私はだめなんだろう…。
誰からも、どの会社からも必要とされていない…。

と日々落ち込みながら、それでも履歴書を書き、面接練習をして、本番に挑む。
そんな毎日を繰り返していました。



3月 コロナで消えた卒業式

1つも内定がもらえないまま、3月を迎えました。
自分で無理だ、と感じているフルタイム勤務は諦めて、卒業したら家の近所でアルバイトをしようか…と思っていました。


そんな時 卒業式がコロナの影響で無くなりました。
大学4年間頑張って学んできて ついに終わりを迎える大事な時に。

ただただショックでした。

私の大学では、卒業式の後に謝恩会があり 有名なホテルで食事をする予定だったのですが、それもビュッフェ形式だったため無くなりました。

4年次で授業自体も少なくなっていたため、
卒業式や謝恩会で久々に会える!と思っていたクラスメイトとも、会わずに卒業をしました。正直実感がありませんでした。


4月、5月、6月 家庭内ストレスで適応障害になる 死にかける

形だけの卒業をした後、近所のアルバイトに応募したものの不採用になり、なんだかもう疲れ果てていました。

仕事もできないので ただ、家で暮らす日々。
昔から相性の悪い父親と、毎日同じ空間に居なければいけませんでした。

映画かと思う程 大音量で流れるTV。
警察24時やドッキリ番組等の 刺激が強い番組を流したり、CMの度にチャンネルをガチャガチャと変えること。

買い物依存症で、ほぼ毎日いらないものが家に届くこと。(しかも大型の家具や高級な家電、不必要な食材等)

病気のために 家事の一つもせずに、毎日ごろごろと過ごし、
母親がつくった料理を すぐに要らない、と残すこと。

手作りの料理は残すのに、ジャンクフードやお菓子を好み、
それを必要以上に食べること。


HSPの気質が強い私は一緒の空間にいるだけで、心が病んでいきました。

食べることが大好きだったはずなのに
好きなものを食べても 何も味が分かりませんでした。

固形物を食べる気力が無くなって、一日に 柔らかい小さなパン1つと 250mlぐらいの豆乳1本しか飲めない日もありました。

ベッドに横になり、ただ天井を見つめて過ごすこと。
スマホでたまに動画を見ること。
少しの食事と トイレ、お風呂に入ることぐらいしか出来ない日が続きました。


夜ベッドに入っても全く眠れず、ネガティブ思考に陥りほぼ毎日泣いていました。生きることが辛くて ただ消えたかった。


ある日、今までで一番ネガティブ思考に襲われました。

この世に存在したくなくて、生きたくなくて
 自室の窓から飛び降りて 死のうと思っていました。



ですが 自室の窓には虫が入らないようにびっちりテープが貼ってありました。

体力も減っていた私は そのテープを剥がす元気がなく、飛び降りることはできませんでした。

今思うと、そのテープによって私は死なずに済んだと感じています。


さすがにおかしいな、と思い、精神科に行ったところ
父親が原因の適応障害 だと診断されました。


それから、もらった薬を飲み、カウンセリングに1ヶ月程通いました。
父親から物理的に距離をとり、食事を自室で摂るようにしました。
もらった薬を飲み、できるだけ少しでもいいから3食食べるように習慣をつけました。

今自分ができることだけ こなすこと。
楽しめることだけすること。生きているだけでえらい。


死んだように 日々を過ごす中で 本当に少しずつ回復していった気がします。

正直この頃の記憶がもうあまりありません。
でも、私は今確かにここにいるので 必死に生きていたんだと思います。


7月8月 ただ 楽しめることをして心の回復を待つ

3ヶ月程精神科に通い、父親から距離をとることを続けていたら
睡眠薬が無くても眠れるようになりました。

でも まだ働ける気力はなく ただ好きなゲーム(あつ森、ツイステ等)や映画を見て過ごしていました。

この時期の記憶も もうあまりありません…。


9月10月 引っ越しを決意して 行動に移す

心は回復してきたけれど このまま実家にいても、何も変わらない。
父親の性格や行動を変えることは不可能だから、私が離れて環境をがらっと変えた方がいい。嫌な人、環境からは逃げたほうがいい。

優しいフォロワーさんのツイートや、好きな両学長の動画を見て
そう確信して、引っ越しに向けて動き出しました。

今住んでいる東京で一人暮らしをするには人も多くて疲れてしまうし、金銭面的に不可能なので

物価が安く、東京から近い千葉県に決めて、できるだけ安い家をさがしました。
(大学の仲の良い友達が千葉に住んでいることも大きな決め手でした。)


そして10月20日。築30年ほどのワンルームに引っ越しました。


11月、12月 ほぼ無職のまま、自分のしたいことをひたすらして過ごす

今まで家族から受けていたストレスがなくなったものの、
慣れない生活や家事に追われてる日々を過ごしていました。 

引っ越してから2週間後ぐらい立った頃、そろそろ働いたほうがいいかもしれない…と思い、派遣会社に登録して軽作業の仕事を始めました。
しかし、新人いじめのようなものに合い、メンタルがズタボロになり3日間で辞めました。

それから、仕事を始めるのが今まで以上に怖くなってしまいました。


とある事情で半年分の生活費は確保していたので、
今あるお金は減る一方だけれど まずは心のためにも、楽しめることをしよう。
そして、切りよく来年から働こうと決めました。


それから
気になっていた近くの飲食店に食べに行ったり、隣町まで探索に行ったり…。
急にスイーツ研究にハマり、そこから毎日何かしら創作をしていました。

noteを始めたのも11月のことでした。


自分のやりたいことを、誰の目も気にせずに自由に楽しむこと。

無意識に人に合わせて生きてきた私にとって、本来の自分の気持ちを取り戻したような時期でした。





この1年、こうして振り返ってみると
コロナとは関係なく、かなりハードな年を過ごしたな…と思います。


来年は、もっと平和に過ごせるよう、
今まで以上に自分の心を大切にして生きていきたいと 改めて感じました。


今辛い状況にいる方へ

みなさんも、自分がもし辛いと感じることがあるなら、
その気持ちを無かったことにせず 自分の正直な気持ちを大切に生きてください。

辛い状況がずっと変わらなかったり、自分の苦しい気持ちを誰にも言えないと
うつや適応障害になってしまうかもしれません。

本当にうつや適応障害は辛いです。
今までの人生で浮かんでこなかった「死」があまりにも近い距離感で近づいてきます。ふと気づけば、隣にいるような感覚になります。
(もしできるなら私は適応障害になりたくなかったです。今でもたまにあの時のネガティブな気持ちが蘇ることがあります。)


もし今辛いなら、その場所から、人から逃げてください。
思っているよりも日本は断然広いので、絶対あなたがもっと生きやすい場所があります。



最後に、「西の魔女が死んだ」より 私の大好きなセリフを載せておきます。

自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
後ろめたく思う必要はありませんよ。
サボテンは水の中に生える必要はないし、
蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、
だれがシロクマを責めますか。



どうか、もっとあなたが 生きやすくなりますように。

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