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やさしいコーヒー

コーヒーを回すとしゅうしゅう、と音がする。そんなことを考えていたら、とっても優しい気持ちになった。布団に囲まれパジャマで本を読む、ここが私の城。牙城。ここを攻め落とせば簡単に死ぬ。でも、この瞬間に殺されるのなら、多分私はどこまでも飾らず私のままで死んでいける。よく言う表現なら「等身大の私」なんて表現かもしれない。等身大っていう感覚は、縮小と拡大の概念がないと通じないんだろうか?生憎、私は人間を縮小拡大するという感覚がないので、この表現はあまり好きではない。私の言葉で表すとしたら、「心の形の輪郭を取る」かもしれない。私の心の輪郭を一番小さく一番的確な場所で、ぼやけているその縁をなるべく綺麗に、中身を傷つけずに、取ったら、そこ。今の私が出てくる。マトリョーシカみたいなことを言っているかもしれない。だらしなくても、人に誇れなくても、この瞬間だけは忘れずにいたい。そして誰にも触られたくない。触らせたくない。誰かが触れたら壊れてしまう。壊れなくても、なにか一つの殻に入ってしまう。するとまたそれを出すのは面倒だから。
最近思うのは、私は涙が出るほど本が好きだ、言葉が好きだ。本の装丁も、どんな売り方をするかも、匂いも、何もかも。そこに誰かが生きているって、そこに何かを表現するって気持ちが、その形が本になっている。そこに人間がいる。
それから、私はこういうもののために悩みたいと思うのだ。これからどう生きていくにせよ、どこかで絶対に悩む。でもこのためになら、本のためになら、言葉のためになら、辛いことでも、悩むことでも、受け入れてみたい。文章のためになら、人に伝えるためになら、自分を表現するためになら、いくら悩んでも、後悔しない。私はきっとこのために生きている。これができないなら、私は死んでいるのと変わらない。ほらね、涙が出てきた。本当の事言うと、人間って涙が出るんじゃないの。私は少なくともそうだった。本のことを考えて、言葉のことを考えて、文章のことを考えて、そんなときは必ず涙が出る。

私、きっとこのために生まれてきた。

もっと読みたい、読み尽くして、そして自分の言葉で書いて、書き尽くして、きっとどこまでも満足しないけれど、何も成せないかもしれないけれど、私が私でいたいなら、こうして生きるしかない。私は文章を読むとき、文章を書くとき、一番やさしい気持ちでいられる。田舎でおばあちゃんが作ったジャムみたいな、3時のおやつの紅茶に添える、木苺のイラストが描かれたクリーム色の器に入った角砂糖みたいな、きな粉作るときにお母さんが「少し入れると美味しくなるのよ」ってちょっと笑いながら入れる塩とか、そういう素朴でやさしい、あったかい、気持ちになれる。値は張らない。安い。新しくもない。優れてもない。でも、あったかい。やさしくて、ほんのり甘い。

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