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そもそもカフェとはなんなのか | 小布施でカフェを始めるまでの話

前回のブログ「ブログ開始 | 小布施でカフェを始めるまでの話」はこちら

今回は「そもそもカフェとは?カフェのもつ意味ってなんだろう?」ということについて、私なりに考えたいと思います。

カフェは、多くの方が友人との待ち合わせで使ったことがあり、馴染みの店員さんとのふとした会話、お決まりの席で一人だけの時間を楽しみながら過ごせる場所。このコロナ禍で、いきつけに通いづらく、さみしい思いをしている人も多いと思います。

最近は「カフェ」という言葉が乱立して、かなり広い意味になっているようです。私の考える狭い意味でのカフェを考えていきたいと思います。

カフェは「美味しいコーヒーとケーキを出す飲食店」ではない

コーヒーや紅茶などの香り高い飲み物、かわいいケーキなどのお菓子、ナポリタンなどの軽食があり、それを楽しみに通うことも多いはず。

しかし、レストランや洋食屋さんにもケーキやコーヒーはあるお店もありますが、そこはカフェとは言わない気がします。ケーキ屋さん併設のテーブルでケーキとコーヒーを飲んでも、「カフェ利用可能」と書いてあるフリースペースで一人で缶コーヒーを飲んでいても、カフェで過ごしているわけではありません。(と、私は思います!)

カフェのもともとの語源はフランス語の「コーヒー」の意味ですが、それだけでは、なにか足りないようです。ましてや、流行のホットケーキやタピオカを求めて人々が並ぶお店は、商売としては大変いいお店ではありますが、「カフェ」ではないようです。

カフェは「人が集う場所」でもない

「そうか、人が集まって話しているのがカフェなのか」と考え始めます。コミュニティづくりにおいても、「まちかどカフェ」「哲学対話カフェ」などの企画をよく見かけます。

公民館などに集まり、地域の話題を話し合いコミュニティでともに新しい解決策を話し合おうというもの、普段考える機会の少ない哲学対話を通して住民同士の対話の質を向上させようというもの。どれもとても価値があるものです。

しかし、その光景を想像するとき、目の当たりにするとき、私の考えるカフェとは違うようです。

カフェは「主人のいる有料サロン」ではない

カフェとサロンは、かなり似た概念だと思っていました。ほとんど同じ意味だと感じていました。場所を仕切るキーパーソンがいて、全体の創造的な雰囲気を作り出すイメージが近かったからです。

最近読んだ『カフェから時代は作られる』(飯田美樹 クルミド出版)によると、サロンとカフェには主人とお客さんの関係性に大きな違いがあるそうです。

サロンの主人の場合は、彼女が無償で与える空間や飲食物や労力に対し、参加者から返ってくるのは感謝や気の利いた会話やお世辞などである(中略)それに対してカフェの主人の場合は、彼が提供する空間や飲食物や労力はすでにメニューに設定された値段の中にきちんと含まれている。 (186ページ -第5章 商売人としての主人-より)

サロンでは、客側もサロンオーナーの目線を気にすることになり、窮屈になっていく。一方、カフェは有料であることにより、マスターとお客さんの関係性が対等になり、ビジネスとしても継続していくのですね。

しかし、極論、お金を払ってその場所にいて、主人と話していれば十分なのか。それだけでは、カフェではないようです。

カフェは「バー」ではない

バー(BAR)はすごい場所です。顔なじみの人が集い、気の利いたマスターがいて、グラスを酌み交わし、楽しいとき、寂しいとき、一人佇むときに通える場所です。私の意識するカフェと本当に近いです。

しかし、お酒を主に提供することで場所の雰囲気が変わってしまうように思います。(少しは出しても良いですが...)

オーストリアのカフェの起源は1683年。ウィーン包囲の後、トルコからの戦利品のコーヒー豆を使ったコーヒーを提供するカフェがウィーンに広まっていったそうです。

このとき、戦争につかれたウィーンの人たちにとって、お酒を飲んで辛い思い出を忘れるのではなく、カフェに集って自分の人生を振り返ることに価値があったのだと想像します。

やはり、カフェはバーではありません。

カフェは「居場所」ではない

『カフェから時代は作られる』には、こんな一節もありました。

こうして、安い値段でしかも長時間い続けられるカフェという場所は、居場所を失った者たちの真の避難所となったのである (112ページ -第4章 カフェという避難所-より)

1900年代初頭、文化の中心となっていたパリには、世界各地から多くの芸術家、文化人、研究者、学生、労働者などが集まり、それぞれに深い孤独や挫折を感じ、パリの「ロトンド」「ドーム」「ドゥ・マゴ」などのカフェに集い、安らぎや新たな出会いを見つけていたのです。

もう、とても近いです。このような人たちに「居場所」を提供できたら、そんなサービスを提供できる空間が出来たら、どんなにいいことでしょう。

小布施は長野の北部で、必ずしも都市部ではないけれど。過去の葛飾北斎も、江戸の文化取締のなか作品制作において居場所を失い、地方の小布施に来て作品を残したと言われています。

しかし、問題があります。今の多様化した時代において、マイノリティでない人、孤独を抱えていない人、悩みがない人がいるでしょうか?

結局、全ての人のための居場所ということになってしまい、サービスとしてのカフェにおいては、対象が非常にぼやけてしまうようです。

結局、カフェとはなにか?

そろそろ気づいた方も多いと思うのですが、私、カフェについてかなりこじらせております。考えていくと、いつまでも結論が出なそうです。

先ほど上で否定しましたが、良いカフェには、香り高いコーヒー、美味しいケーキ、集う人たち、気の良い主人や店員さん、ビジネスとしての継続性、主人とお客さんの対等な関係、バーのような心地よい空間、安らげる雰囲気、自分の時間を過ごせる居場所など、どれもすべて必要な要素ですよね。

それでいて、すべての要素が完璧、かつ最上だからいいのでなく、いびつだから面白いものもある。とはいえ、どれかの要素が全く欠けていてもいけない。そんな感じでしょうか。

そして、その総合的な価値は、オーナーの独りよがりでも、オーナーや働く人の生活を犠牲にした先ものでもなさそうで、オーナーである私の評価とお客さんの評価の中間にありそうです。しかも、その評価は、時間とともに流動しそうです。

つまり、「カフェとはこれ!」と単純化できるものではなく、「全体でのバランス」ということになりそうです。(もう、くどくどと書いた後、この結論ですみません)

とはいえ、具体的な目標がないと抽象的すぎます。次回は、私の考える「カフェ」をすでに実践されている素敵なお店たちを紹介していきたいと思います。

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