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「幸せですか?」という愚問

僕が鬱だった頃、出かけると宗教関係の人から「幸せですか?」などとよく声をかけられました。なのに鬱が治ったら全く声をかけられなくりました(笑) 

今の僕は色んな宗教を偏見なく学びたいので、逆にこちらから彼らに声をかけて色々質問するのですが、明らかに困惑されてしまい、まともに質問に答えてもらえず、結果的に論破してしまったような形になってしまいます。そしてただ「〇〇を読んで」とか「集会に参加して」と言われるだけです。あらゆる宗教を否定しないのが僕の基本姿勢ですが、自分の宗教の教義もよくわかってない人間に勧誘をさせるって本当にどうかと思うんですよね。

まぁ例え相手が教義を理解していても、僕が質問するだけで結果的に相手を論破してしまう形になることに違いはないでしょうけども、僕は人を幸せに導きたいのであって論破がしたいわけではないですし、プライドを傷つけては逆に道を誤らせてしまうので気を付けています。

それにしても「幸せですか?」って、そんなのその人の発している波動ですぐにわかるわけで、愚問もいいところです。宗教関係者は確実に相手が不幸だと感じ取って敢えてそういうことを聞いてくるわけで、他人の不幸を自分たちのために利用しようとしているのが丸わかりなのです。

そしてまたそういう新興宗教の関係者ってみんな不幸オーラを出しまくっています。それで決まって「世界を幸せにする」とか言い出すのですが、そんな不幸オーラ丸出しの人が他人を幸せにできるとは思えません。不幸な人の言うことに従ったら不幸になるのは自明ですからね。僕には彼らが悪魔の使いに見えてしまいます。

僕が鬱だった頃は知り合いとかでも時々「今幸せ?」って聞いてくる人がいました。やはり僕が幸せそうだったらそんなことは聞いてこなかったでしょうし、その人も自分自身の幸せに自信があったらきっと他人にそんなことは聞かなかったでしょう。結局その人は他人の不幸で自分の不幸を慰めたかったのだと思います。

今の僕は幸せで仕方がないのですが、そんなことはわざわざ他人に言わなくても伝わってしまいます。だから僕は宗教に勧誘されなくなったのでしょう。友人に幸せかどうかを尋ねられることも滅多にありません。

そのように幸せはわざわざ他人に言わなくても伝わるものなのに、やたら他人に幸せをアピールしてくる人は多いです。特にSNSなんかそのために存在しているんじゃないかと思わせるほどです。多くの人は幸せをステータスか何かだと思っていて、他人から見下されないために「自分は幸せだ」と主張しないといられない感じです。本当に幸せな人が素直にそれを表現して感謝の気持ちを表すのは素敵なことですが、不幸オーラ丸出しな人が無理に幸せをアピールしようとしているのを見ると何だかかわいそうになってしまいます。みんな他者評価依存という社会病理によって、見下されて傷つきみじめにならないよう幸せを装い見栄を張ってアピールせずにはいられないのでしょうが、その行為が自分を本当の幸せから遠ざけているのだといつか気づいて欲しいです。幸せというのは自分という主人公が感じるものであり、幸せじゃないからと言って脇役たちから羨ましがられることで幸せを感じようとすることは逆効果なのです。

真理はワンネス(あなた=私)であり、本当の幸せとは出会った人を幸せにすることによってのみ得られるもので、他人と競い合って奪い合ったり、利益を独占したりして得られるようなものではないのです。

過剰にアピールが必要なのは実態がそうではないからなのです。これはあらゆるアピールに通じる真理です。性的魅力のアピールもそうですし、企業CMなんかも、本当に良いもの適正に供給し適正な価格で販売しているのなら、しつこく過剰な宣伝をする必要はないはずです。実体験した人が勝手に宣伝してくれて供給に困るぐらいの状況になるでしょうからね。たいして良くないものをイメージで売ろうとし、また過剰な利益を上げようとするから宣伝(アピール)過剰にならざるを得ないわけです。早くこの社会の価値観・システムを変えて、この宣伝(アピール)だらけの嘘社会を美しく変えていきたいものです。

ネイマールも本当に痛い時はゴロゴロアピールしません。

これは真理(覚り)を求めて日々そこに近づいてみてわかることですが、真理とは自分も相手も幸せにするものなのです。だから正しいか間違っているかはその考え方が自分も相手も幸せにするものかどうかでわかります。もし今あなたが不幸なのだとしたら、それは考え方がどこかが間違っているということです。

人の悪い思考や行動というのは、すべからく過去の傷による防衛本能(逃避)により誤った悟り方をしているせいなのです。だからみんなの心からの笑顔をコンパスとして、みんなが心から幸せになれるかどうかを基準にして考えれば、間違った思考や行動に翻弄されることはなくなります。

誰でも自信満々になれる方法に書きましたが、自尊心の源を能力に置いている人は、自分の能力に自信がなくなると「自分は正しい」ということで安易に自尊心を保とうとします。正しさに能力は要らないからです。そして正論で他人を批判してばかりいるようになります。特に能力が衰えてきた高齢者はみんなそうなりがちです。それは常に人のあら捜しをして批判し続けていないと自尊心を保てない病気なのです。個性は必ず欠点と過ちを含み、欠点や過ちのない人はいませんから、他人の欠点や過ちを責めようと思えばいくらでも責めれます。

でも我々は元々一つですから、人間関係は完全な鏡であり、他人を責めた分だけ自分が傷つくようにできているのです。だから正義を声高に主張する人の顔はいつも病的で、常に愛より正義を優先してばかりいるのでしょう。それで周囲とモメてばかりで嫌われまくって余計に自尊心を失い、傷ついてばかりいるのです。このような人が自分は幸せであるかのようにアピールするのは「自分は正しい」「見下されたくない」と言っているだけで、本当に幸せではないのは丸わかりなのです。

そういう人は僕みたいな本当に幸せな人を勝手に不幸だと決めつけて批判してくるので困ってしまいます。まぁ僕のように無職で無一文で独身の人間が幸せだったら「世間体を気にして常識に合わせて一生懸命働いてお金を稼いで家族を養って色々頑張って苦労してきた私の人生は一体何なんだ?」ってしまいますからね。今の僕は例え何も言わなくても存在するだけで、現代社会の価値観に自分を合わせて生きてきた不幸な人たちからは、自分の人生を否定されたと感じさせてしまうのです。

そういう人たちは頼んでもないのに僕の人生や考え方をムキになって否定してきて「お前は不幸に違いない」と決めつけてきます。これは結構面倒なんです。僕がなぜどのように幸せかなどを説明してしまうと不幸な人の人生観を否定して傷つけることになってしまいますから、何も言えなくなってしまうのです。不幸な人は考え方が歪んでいるからこそ不幸なのに、プライドを守るために絶対自分の誤りを認めようとはしませんから、直接的に何かを教えることで彼らを救うことはできないのです。まして相手がこちらを見下したり嫌っている人なのなら確実に無理です。

ですから実生活における僕は常に何かを教えることより相手の話を丁寧に肯定的に聞くことに専念し、相手の鏡となって本人が自ら気づくように心を砕きます。(noteや質問箱は話を聞くだけでは成立しないので説明しまくっていますけどね)自分を否定してくる相手を肯定し、愛で返すのは本当に忍耐がいるのですが、まぁ修行ですので・・・。

【メシア流指導三原則】
1.指摘せず気づかせる(プライドを傷つけない・質問や例え話などによって答えを相手に言わせる)
2.教えず導く(説教しない。相手を信じ、神の導きを信じ、祈る。失敗経験も重要)
3.自らの学びとする(主人公は自分であり、相手はNPC。相手を変えようとせず自分が成長する)

世の中お金さえあれば人に愛されなくても生きていけて安心な感じがします。でもお金がなければ愛されないと生きていけません。僕はお金がないからこそ人を素直に頼り人に笑顔で感謝し人に愛されて幸せに生きています。みんなにご飯をごちそうになり、家に泊めてもらったりしています。交通費もすべて他人のおごりです。アヤワスカ系のイベントなどにもいつも無料で招待されています。そしてただそこにいるだけで「良いエネルギーをありがとう」みたいにいつも感謝されます。お金でも能力でも行為でもなく、存在するだけで人を幸せにし、存在価値を認めてもらえるようになり、そして更に幸せになっているのです。

僕は全く自力ではなく神によって絶望の淵から救い出されて幸せにしてもらったので、かつての自分のように苦しんでいる人たちを見ると救いたくてたまらなくなります。一度は捨てた命ですし、見返りなど何も要らないのです。でもそういう前のめりの姿勢では怪しげな新興宗教と同じで人は救えないんです。ですから僕はただ神に祈ることを一番大切にし、出会った人を例外なく愛し大切にして、幸せと救いの連鎖反応を人知れずそっと進めるだけです。

もちろん一人ぼっちの修行生活ですし、ほぼ常に無一文状態ですから辛いこともたくさんあります。でも筋トレと同じでキツくなかったら成長するわけがなく、修行にはなりません。神は意味のない苦痛を人に与えないと信じています。

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