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俺は俺の定義を広げ、もっと俺になる

俺のことは、俺がいちばんよくわかってない。
俺のことは、俺がいちばんよくわかってる。

いま、この瞬間の俺は、今までの俺の集積であるとして、
その集積(さまざまな層を重ねたミルフィーユを想像する)にある程度の傾向は存在するだろうし。
一つ一つの層の厚さは均等ではないはずだ。

同僚は言った。
「昨日の自分と今日の自分は他人だ」と。

その言葉が、どうも胸に残る。

今までずっと積み上げて、個人的には美味しそうに仕上がったミルフィーユは、
実はその日だけ、なんならその瞬間瞬間で賞味期限は切れる(あるいは製造年月日が常に更新される)のだとすると。

これまでの経験や知識は無駄になってしまうのではと怯える。

村上春樹は”ノルウェイの森”で「人生はビスケットの缶だと思えばいい」と科白を書いた。

江國香織は”泳ぐのに、安全でも適切でもありません”で「瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。SAFEでもSUITABLEでもない人生で、長期展望にどんな意味があるのでしょうか」と問うた。

これまでの集積してきた瞬間瞬間を丁寧に振り返れば、俺のことがある程度理解できる。

これから積み上げる瞬間瞬間で、今まで集積してきたこととまるで違うことをしてみる、あるいは、俺自身を裏切ることをしてみる。

そうすることで、俺の理解が及ばない部分での俺になることができる。

俺を形容する言葉が増える、あるいは形容詞でもオノマトペでも表現できない俺になったとする。

俺は俺の知らない俺を知れて嬉しいと思うか、もしかしたら俺じゃないと思うのか。

俺っぽくないから選ばない
俺の選択ではないから選ばない

すべての逆を選ぶ。

なんなら、選べと言われても選ばない。

そうやって俺は俺の定義を広げ、もっと俺になる。

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