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書評:アリストテレス『政治学』

万学の祖・アリストテレスが捉えた政治とは

今回ご紹介するのは、アリストテレス『政治学』。

万学の祖と称されるアリストテレスは、政治をどのように思考したのだろうか。

①政治学における「自然」について

「人間は政治的動物である」

これはアリストテレスの金言としてあまりにも有名な一句だ。

当時、「自然(ピュシス)」と「習慣、法律、契約(ノモス)」を対立させる考え方が流行していた。

前者(自然主義)は、その世界観において唯物論的機械論的な思想となり、全ては根源的な物体(四元素)の偶然的作用の結果として生じたに過ぎないと主張した。

対して後者(人為主義)は、相対主義的思想となり、全てのものは各人に思われる通りにありなんと主張した。

また、政治倫理観においても、自然主義と人為主義は「正しさ」を巡って対立していた。

自然主義にとって正しさとは力あるものが多くを取ること(自然の正義)、人為主義にとって正しさとは多くを取るほどの力なき大勢が合意し契約した法律の命(法の正義)に従うことを意味した。

アリストテレスはこうした時代思潮を意識し、これを克服しようとした。

「国家は自然によるものの一つである」

アリストテレスがこう言う時、彼は国家がそのままで自然的存在であると主張しているのではない。
むしろ人間こそが自然的存在であるとの認識がある。

しかし人間は一人では生きられないため、その超克として家・村・国家共同体が生じたと捉える。

「国家は人々が生きるために生じ、且つ人々が良く生きるために存在する」

つまり、人々が善美に生きるために、共通な利益を配分できるだけの「自足性」を持つことが国家の目的であるとアリストテレスは考えたのだ。

かくして、共同体は初期段階において自然によってあり、且つ最終段階としての国家もまた自然によってある、とアリストテレスは結論する。

ところで、アリストテレスは言う。

「人間だけが言葉を持つ。(中略)なぜなら人間だけが善と悪、正と不正、その他の事を知覚できるということ、(中略)そして人間がこうした事柄を互いに共有することが家や国家を作るからである」

その特性のゆえに人間は一層高度の、ただ生きることから良く生きることに至る目的を実現しうる国家共同体を作るのだと主張する。

②それぞれの国制にとって何が正しいか

さて、アリストテレスは国制をどう捉えたのだろうか。

彼はまず、国制を正しいものと正しさから逸脱したものとを分類した。
正しい国制とは公共の利益のための国制、逸脱した国制とは主権者・支配者のための国制というのが基準だ。

次に彼は、国家の主権を持つものを一人、少数者、多数者に分け、単独支配性、少数者支配性、多数者支配性の三つを区別した。

これら区別を合わせ規定したのが、かの有名な六政体論である。

◯王制 …正しい単独支配制
◯貴族制…正しい少数者支配制
◯国制 …正しい多数者支配制
◯僭主制…王制から逸脱した国制
◯寡頭制…貴族制から逸脱した国制
◯民主制…国制から逸脱した国制

上記の正体はいずれも内部に相違を内包している。
例えば国制であれば、支配する側とされる側だ。

しかし彼にとっては、この不平等は必ずしも不当なものではないという。支配者の能力、価値が国家のためになり、国家が必要とするものであるならば、彼(ら)の優越性は正当だと考えるのだ。何故ならこの場合には、比例的な公正さ、即ち人の価値に応じて物(主権)が配分される公正さが存在するからだ。

では、どのような能力・価値があれば人は主権者たる資格を持つのだろうか。

アリストテレスは、一旦は国家が果たすべき要件に基づいてその資格が要求されるべきと考えるも、それを退けている。

それは、一国を構成する異なる階層の中で、数の多寡を問わず、一部のものが他の者、他の階層を支配するべき正当性は存在しないか、せいぜい相対的な正しさに過ぎないと考えたからである。

ここへ来てアリストテレスが新たに提示したのが「法の正しさ」という基準だ。

彼は、正しい法とは国家全体の利益と市民に共通な利益を等しく考慮するものでなければならないとする。

つまり、国内の異なる階層に属する全ての市民の利益のための法ならば、階層の別を超えた全体に及ぶ正しさを持つということだ。

しかしここで彼は、正しき法は優れた一人ないし少数の者に対し適用されるのかということ考えなければならないとしている。

彼ははこれを否定した。何故なら、正しい法は国を構成する全市民の平等性を想定するのに対して、優れた少数者はそうした平等性を超える存在と捉えられるからだ、というのが彼の論理だ。

それ故、正しい法たりとも無条件に正しいとは言えなくなるのだ。

③本著から導かれる教訓とは

上述の論証からの教訓として真っ先に思い浮かぶのは、国家における主権者の正当性は相対的で不安定なものだという点であろう。その不安定さへの対策として、各々の国制では様々な施策が採られることになる。

例えば、民主制における陶片追放。類似の施策は僭主制や寡頭制、更には正しい国制においても許容された。これは、全体の均衡を破る者はたとえ一層優れた者であってもこれを排除することは国家にとって有益だと考えられたからに他ならない。

他を優越するとの合意がある場合、陶片追放は国家の安定に寄与するとして正当化されたのであった。

立法家がこうした荒療治が必要にならぬよう予め国制を組織付けることができればそれに越したことはないだろう。しかし一旦事が起こった際にはこの種の矯正手段が用意されていることが国家を立ち直らせる上での次善の策だというのがアリストテレスの評価であった。

元の国制が必ずしも正しいとは言えずとも、出来得る限り国制の安定を図ることを重視し、対抗処置を模索したのであろう。

④幸福な国家、幸福な生とは

もし最善な国制というものを観念するならば、それは無条件に正しい国制のはずである。

では無条件に正しい国制とはどういうものでであろうか。

一つは、国家における正しさは人の価値・能力に応じて主権・公職が配分されること、もう一つは価値において互いに平等な者、能力において互いに同質な者の間で彼らが交替して支配の任につくことにあるとアリストテレスは考えた。

しかしながら、人の価値、能力が多くあることは、国制の正しさしか意味しない。合わせて人の最善価値とは何かが問われなければならないだろう。

そしてそれは、魂にかかわる善、即ち「徳」であるというのがアリストテレスの主張であり、ここに師プラトンの影響を見て取ることができよう。

もしそうならば、無条件に正しい国制とは、全市民が「徳」において同質、平等であり、それ故に交替して支配するような国制であることになる。

では、このような国制を敷くことができる国家とはどのような構成で成り立つのだろうか。

アリストテレスは、国家を構成する市民は、国家を防衛する戦士の階層と審議・裁定する公職者からなるべきと主張する。それ故、このような国家における支配は世代の交代によって行われることとなる。

ここから、教育の重要性が強調されていくことになる。

次に、幸福な生についてはどうか。

この点当時、大きな二つの思潮があった。

一つは、国家に参与し実践に身を投じる生、政治的生こそが望ましいとする立場、他方は、国家共同体の絆から解放された私人の生、観想に心を潜む哲学的生こそが望ましいとする立場だ。

アリストテレスは、双方に一面の正しさを認めつつも、肯定はしなかった。

「政治派」に対しては、「実践」の観念を論断する。彼は、他の事のためになされる手段としての実践と、目的としての実践を区別し、後者こそが幸福な生だとした。

「観想派」に対しては、「自由人」の観念を論断する。国家共同体から解放され、政治的実践から逃避する人を彼は自由な人とは看做さなかった。その人は「国家的動物」である人間の自然本性から逸脱しているからだ。

これら主張を踏まえた上で、彼は最善の生としての「徳に適う実践」とは、正義、節制などの徳の活動のみならず、純粋な知徳の活動をも含み持つものだと理解しなければならないとした。

⑤アリストテレスの哲学体系における政治学

ここで我々は、アリストテレスの国家論が彼の壮大な目的論的体系のうちに位置付けられていることを見ておく必要があルだろう。

地上の最善の国家においては、支配は支配階層と被支配階層の世代の交替によって維持されるとされた。

それ故国家的実践も一種の循環的で自足的なな形態を有することになる。

また人の最善の生の実践も、魂の徳の発現である限り、その生自らの充足、完成こそが最善であることとなり、この意味で個々の生もまた自足的なあり方を有することになる。

ここまで来ると、もはや「正しく幸福な生とは、神の完成したあり方の模倣である」という、神への志向性へと限りなく近接することになるだろう。

何故なら、「あたかも愛されるものが動かすように、それは動かす」と言われる神を、万物はそれぞれのあり方によって希求するからだ。

ここにおいて、良き生を目指す幸福な理想国家とは、自然を越える神の至福なあり方を「希求」することにこそあることが示されることになるのだ。

読了難易度:★★★☆☆(←やや難解)
良さ・正しさを軸とした体系度:★★★★☆
後年への影響度:★★★☆☆
トータルオススメ度:★★★☆☆

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