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書評:ユルゲン・ハーバーマス『デモクラシーか資本主義か 危機のなかのヨーロッパ』

規範としての民主主義は復興できるか?

冒頭本の話ではないのであるが(←余談から入る投稿は久しぶりな気がする)、今後は自分で撮影した本の写真にもちょっとこだわりを込めてみたいと考えている。

さて、本題である。

今回ご紹介するのは、ユルゲン・ハーバーマス『デモクラシーか資本主義か 危機のなかのヨーロッパ』という著作。

本著のタイトル、実は敢えて少し挑発的かもしれない。
というのは、「デモクラシーか資本主義か」と並べられた時、あなた(読者一人一人)はどう思うだろうか?と、著者が突き付けているからである。

私は資本主義はある種の経済システムを指す概念であり、その正反対にあるのは共産主義という概念であると自身の中で整理している。

他方、別の軸として、経済政策(経済という舞台において政治が何を目指す・なすか)という対向関係があり、両端に自由主義と社会主義が位置すると整理している。

そして、「民主主義」や「独裁政治」といった政治体制論や政治手続論については当該概念整理からは一旦除外するのが良いと考えている。

詳しく書くとそれだけで長文になるためこの辺りで小括するが、デモクラシー(民主主義・民主政治)と資本主義というのは、そもそも対向関係にもなければ、どちらかを選択しなければならない関係にもない(トレード・オフでない)、分離独立した概念である。

では一切何の関係もないのか?
それがそうでもないところが説明の難しいところだ。

乱暴な例となるが、例えば、野球場とサッカー場が並んだ場所があったとする。
そして同じ時間に前者では野球の試合が、後者ではサッカーの試合が行われていたとしよう。

前者における対向関係は野球チームA対野球チームBである。
後者の場合はサッカーチームC対サッカーチームDである。

野球の試合の進展・結果とサッカーの試合のそれらは、通常は高確率で相互に無影響であり、関係がない。

しかし、例えばの中の例えばだが、ある野球打者が場外ホームランを打って、隣のあるサッカー選手に直撃し、そのサッカー選手が退場を余儀なくされる程の怪我を負う、なんてことは、あり得ない話とは言い切れない。

同時間とある程度の至近距離で空間を共有している以上、通常関係ない2つの事情が交錯するということは可能性としては常にある、ということができよう。

デモクラシー(民主主義)と資本主義というのは、極端に言えば本来は上記の野球とサッカーのような関係にある。

しかしながら野球とサッカーの例とは比べ物にならない程の頻度・確率で交錯し合い、かつその1つ1つの相互影響もとてつもなく大きいため、デモクラシーと資本主義との間にはあたかもシステマチックな、論理的な相関関係があるように思えてしまうのだ。

これは私の暴論かもしれない。
むしろその複雑な絡み合いをそのまま受け止め、法も含めて、社会システムを「政治ー法ー経済」の三位一体として捉えなければならない、そうした強い拒絶反応もあることだろう。

しかしながら、概念整理と三位一体俯瞰は矛盾しないと私は思っている。

むしろ概念整理をちゃんとやらない水掛け論的議論が如何に多いことか。
嘆かわしくすら感じることがある。

さて、デモクラシーと資本主義は分離独立した概念である、という私の考えを提示したが、この考えに立つメリットは2つの方向に存在すると考えられる。

1つは、現実的には両者は相互に影響し合っていると言っても、一定程度までは独立して(単独で)研究・設計・実践・検証できるという立場を取れる点だ(これが「どの程度まで」なのかは難問であるが・・)。

もう1つは、両者がシステマチックで論理的な結び付きではないという前提は、両者をパターナリスティックな関係として捉えようとする欲求から解放してくれるという点だ。
このことを別の面から言うならば、両者の影響関係には常にイレギュラーが起こるものであると構えることができる(思いの外影響が小さい場合も想定外の大影響が生じる場合も共に)、ということになるだろうか。

このことは、科学一般の基本要件である「再現可能性」という要件を、デモクラシーと資本主義の関係においては充足することが難しいということでもあるだろう。

いずれにせよ、ここまで長々とデモクラシーと資本主義についての私の考えを書いたのは、両者は分離独立した概念ながら現象次元では常にイレギュラー性を孕んだ影響関係にあるという、科学としては大変取り扱いにくい題材であるということを念頭に、本著をご紹介したかったからに他ならない。

さて、本著の紹介に移ろう。

改めて、デモクラシーとは何だろうか。
上述で私は「政治体制」、「政治手続」という言葉を使った。
誰が(Who)どうやって(How)の要素を抽出した捉え方であり。

しかしこの側面だけでは、ハーバーマスの視座を紹介することは難しい。
上述したように、「政治ー法ー経済」という社会システムの三角関係(敢えて今回は三位一体とは言わない、私はそう思っていないからである)を俯瞰することで見えてくる要素も抽出したいと思う。

以下、断言的物言いが多くなりますこと、お詫び申し上げる。
勢いで一気に書かせていただく。

政治とは、詰まるところ「統治」だ。
法とは、政治に対しては「制御」、経済(≒私人)に対しては「制御」に加え「保障」だ。
経済とは、(私人の中心的な)「活動」そのものだ。

三者は、政治と法という枠組みの中で経済が動く、という関係に、少なくとも「理念上は」ある、ということが見えてくる。

しかし、現実は「理念」通りではない。先進国をはじめ世界中が経済的力学に牽引されているかのような事態が現実である。

ハーバーマスの生きるヨーロッパでは、ユーロという通貨統合・経済統合に対し政治的統合がまるで釣り合っていないという、日本で感じる以上に経済に対する政治の無力が表面化している。

経済に対し大極的に手綱を握るには、政治と法が本来の力を発揮せねばならない。

政治と法は、いわゆるチェック・アンド・バランスのような相互牽制関係にあるのは確かであるが、そうした抑止関係だけにあるだけではない。

「立憲主義」という法的理念と「シビリアン・コントロール」という手続が手を組むことで、歴史上かつてない規範性を持ったのがデモクラシーだった。
20世紀というのはそういう時代であった。

「デモクラシーの規範性の復権」、これが本著を通してハーバーマスが訴え続けたテーゼだと私は読んだ。

理想論的で、空理空論的で、地に足のつかない空言だと捉える方もいるかもしれない。

しかし、社会システムには精神性が必要だと私は思う。
そして、現代において、デモクラシー程に高い規範性を備えたことがあり、実績としてそれが世界を牽引した精神性や理念はまだないのだ。

これはデモクラシーが最高の規範であることを些かも意味するものではない。
しかし少なくとも過去に倣いながら規範性を実装していくことは、新たな規範を求める以上に現実的であるように思われる。

「規範」

教条的で、現代社会のような加速度的な多様化の時代には馴染まない概念かもしれない。

しかし、20世紀を通して「デモクラシー」の規範性を見てきた知識人の叫びに、耳を傾ける価値は大いにあると私は考えている。

読了難易度:★★★☆☆
社会概念整理度:★★★★☆
社会システム俯瞰度:★★☆☆☆
トータルオススメ度:★★★★☆

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