書評:山下紘加『エラー』
周囲との関係性は偏務的に成立し得るか?
今回は、私にとっては比較的珍しい現代日本の作品のご紹介である。
インスタグラムでお知り合いになることができた作家様、山下紘加さんの最新作、『エラー』である。
本作は紘加さんのデビュー3作目であり、以前の作品『ドール』『クロス』も読ませていただいた。
待望の第3作であったが、今年1月に雑誌発表、5月(だっただろうか?)に単行本化であったにも関わらず読むのが遅くなり、ようやく読むことができた。
さて本作だが、前2作とは打って変わった「フードファイター」の物語という、これまた異彩を放つ作品である。
主人公「大食いクイーン一果」の、ある種の極限シーンの描写から物語は突然始まる。
動と静の対比が美しい本作は、冒頭から圧倒的な「動の緊迫感」で読者を誘い込んでくる。
その様は、「あらゆる情報が聴覚・鼓膜を通して感じ取られてしまう」という情報の過多の押し寄せであり、一果の混乱に読者は手に汗を握る。
漫画『呪術廻戦』の五条悟は「情報の強制」を相手に強いる必殺必中の領域展開を奥義とするが、一果に押し寄せる情報過多の緊迫感はそれと同質の極限を彷彿させる。
しかし、一果にとってこの状態が、果たしてピンチなのか、それとも次なる飛躍への踏み台・ステップなのかは、その段階ではまだわからない。
このような、圧倒的な緊迫感が両義的なイメージを纏うことから、読者は一果と共に一果の「底」を知りたくなっていくのである。
一果は、フードファイターを極めて理性的でプロフェッショナルな職業、即ちアスリートだと捉えている女性だ。
しかし、大食いにストイックに向き合う自身の姿にこそ大食いの矜持があると考える反面、周囲との関わりを完全に排除した状態での大食いを苦しいものと感じ、ライバルをはじめとした周囲との関係の中で自分を確立しなければならないタイプであることも自覚している。
そんな一果は、大食いバトル番組「真王」の決勝戦終盤に、結果的に周囲との関係性を大きく損なうことになってしまう「ある行動」に出てしまう。
周囲との関係の上に成り立つべきと自覚する一果が、周囲との関係のバランスを自らの振る舞いで崩してしまう。
そんな「エラー」の様子が非常に丁寧に描かれる。
しかし、一果の「エラー」の原因にあると考えられるものは、既に他所で、特に大会でない日常生活の中に暗示されていたように思う。
一果が同棲する恋人の亮介は、典型的な「独りよがりの優しさ」の持ち主。
亮介の優しさには一果への関心がなく、自分の与えたい優しさを押し付けてくる。
そんな亮介の優しさに対し、一果は明確に「ズレている」と感じており、事実そのことは作中後半でも明記されている。
しかし実は一果も同じく、亮介に対して「ズレている」のであり、一果は亮介に全く関心がないのだ。
本作は「語り手が一果」という構成を持っているため、一果による亮介への関心が作中に現れないことは、直ちに亮介への無関心を高確度で示唆するものと捉えることができよう。
そして何より、一果はそのことに無自覚なのだ。
自分で自分の「エラー」に気付いていないということだ。
プロデューサー仁科との関係もそう。
アスリートであることとを矜持とする一果に対し、仁科は大食いをエンターテイメント、言わば「プロレス」として作り上げていくことを目指す人間であることは明らかであるにも関わらず、自身の矜持を仁科にぶつけることはしない。
大学のサークル時代の友人でアイドル・芸能活動を続ける莉子に対しても、その矛盾に憤りながら、それをぶつけることはしない。
つまり一果は、自身を「周囲との関係の上に成り立つべき」人間であると自己認識しながらも、関係を構築する主体性を完全に欠いた人間、それもそのことに無自覚な人間なのであった。
一果の「エラー」の本質はここにあるように思われた。
だからこそ、決勝戦終盤での「突飛な行動」、それは一果なりには珍しく自ら周囲との関係性を作り上げようとしたものであったことが一果自身によって振り返られるのだが、やったこともない「周囲へのアプローチ」、やってこなかったことに無自覚なそれが功を奏するはずもなく、周囲との関係性の「エラー」はますます増幅し、一果自身の「エラー」として跳ね返ってきてしまったのだろう。
いつもながら紘加さんの想像力には驚かされるような、迫力、リアリティのある作品であった。
*:普段行う★評価はおこがましいため割愛させていただく。
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