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書評:夏目漱石『明暗』

文豪によるエゴイズムと則天去私の考究

今回ご紹介するのは、夏目漱石『明暗』だ。

本作は、高校卒業までほとんどまともに本を手に取ったことのなかった私がほぼ初めて通読した文学であった。最初が『明暗』だったから今の私の読書人生があると言っても過言ではないほど、私の人生に影響を与えた1冊である。何かを学んだわけではないものの、そこに描かれる人間の深さ、詳しさ。人間を知悉したかの如き文才に恐れ慄き、人を知り我を知るために文学を貪るようになった。

さて本作は、漱石の最後の作品であり、そして残念ながら絶筆・未完の作品である。

後年の漱石は、自身のエゴイズムに苦しみ、人間のエゴイズムを作品に表現することに心血を注いだとされる。その挑戦の成果は『こゝろ』の先生や『行人』の一郎の苦悩として結実されていることは周知の通りである。

しかしこうした過去作におけるエゴイズムの苦悶が概してモノローグ的であったのに対し、『明暗』はまるでエゴイスト達のポリフォニーであり、また各々の内面までもが複層的で、人間社会に染み渡るエゴイズムの混濁世界を見るようである。

更に漱石は、『明暗』においてエゴイズムから解放された理想的な人間像を描くことを模索していた。それは有名な「則天去私」なる概念の体現者の表現に他ならない。

こうして、エゴイズムの表現の更なる深化と則天去私という新たな表現を担った作品として世に放たれながら、遂にその完結が叶わなかったのが、この『明暗』という作品である。

主人公の津田は、妻お延との夫婦円満の体裁を保つことを重視する人物。相手の腹を探り、バカにされることを何よりも嫌うも、面倒くさがりでもあり、いつも複数の行動動機が頭に浮かぶがさてどの動機で動こうかという打算と自己説明で生きている。また、勤め人ながら父親の援助も受けることでお延を経済的に満足させておこうとするも、どこか心ここにあらずといった様子。

対する妻お延は、裕福な家庭のお嬢様育ちで、津田に一目惚れし自らの目で夫を選んだことに誇りを持つ女性。しかし、夫が自身を愛してくれていないことに薄々気付いており、純粋に愛されたい切なさと、自らの夫選びが間違いであったと周囲から思われるを良しとしない沽券から、夫に愛されようと必死に振る舞っている。

実は津田にはかつて愛した清子という女性がいた。しかし清子は突然津田の前から姿を消し、更にはさっさと他の男と結婚までしてしまったのだった。

津田は、清子自身への未練、そして一体何故そのような結果になったのかが未だに全くわからないという過去へのこだわりから、お延、そして自身の現在・未来と向き合えないままでいた。

本作の最終版で、遂に清子が登場し、津田と邂逅する。その時の清子は正に顔面蒼白。逃げるようにその場を去っていく。

翌日改めて正式に面会をすると、清子に前日のような動揺は全く見られず、落ち着き払っている。

津田には昨日と今日の清子が文字通り別人のようで、「一体どちらが本心なのか?」と問うた。

しかし清子の答えは。

「狼狽したのも私ですし、落ち着いているのも私。昨日は狼狽し、今は落ち着いている。ただそれだけのこと。理由などありませんわ」という始末。

津田にとってはキツネに包まれるようであるも、「そうだ、これが私の愛した清子だ」と、あるがままであることが清子の本来であったことを思い出すのだ。

物語はここで終わります。

明らかに、則天去私の体現者として登場した清子。残された僅かな描写から伺える1つの特徴は、「掴みどころがない」という点でしょうか。

そう言えば、漱石の作品に同じ匂いを感じた女性がいます。『草枕』の那美です。『草枕』の主人公の画家が最後に見出した那美の美しさとは、ミレーの『オフィーリア』のそれでした。

ミレー『オフィーリア』は女性の水死体の絵なのです。

私は読んだ当時この描写から、那美に「死相」を感じました。そして改めて『明暗』を読み返すと、私は清子に同じ匂いを感じてしまうのです。

エゴイズムから解放された女性に漂う「死相」。

エゴイズムを抱えながら、それに苦しみながら生きるのが人間であるということ、エゴイズムからの解放に血など通わないという結論、そんな結末が待っていたのではないかと思えてなりません。

最後の感想は完全に私個人のものです。

いずれにせよ、絶筆が本当に惜しまれる作品です。

読了難易度:★★★☆☆.
人間知悉度:★★★★★.
読書人生影響度:★★★★☆(←主観).
トータルオススメ度:★★★★★.

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