見出し画像

“吹奏楽畑”の人間が突如サッカーライターに 異色すぎる今﨑新也の人生理念とは

皆さん、あけましておめでとうございます。

これまでの自分の人生を振り返る、そして、今﨑新也(34歳)とは何者かを皆さんにお伝えすべく、この記事の執筆を思い立ちました。

今はサッカーライターとして活動しているので、僕のTwitterアカウント(@shinyacalcio)やnoteでの話題は、必然的にサッカーに関するものがメインとなっています。

ちなみに、Jリーグやイタリア・セリエAを主にチェックし、記事を書いています。

ただ、ここで自己紹介を終えても芸が無いので、僕の幼少期や青年期を振り返りつつ、これまで大事にしてきた価値観についても述べていきましょう。

小学生時代の自己表現のツールは、“マリンバ&ピアノ”

小学生時代に、母からの強制に近い勧めによって習い始めた、マリンバ(木琴)とピアノ。

上達のためのコツコツとした練習は苦手でしたが、人前で演奏すること自体は苦でなかったこと、自分の演奏を聴いて周りの人が喜んでくれる感覚を発表会で味わえたことにより、この2つは中学校入学直後まで続けることが出来ました。

真面目に練習に取り組んでいたとは言い難い僕を、根気強く指導して下さった当時の先生には、感謝しています。

思い返せば、僕はこの頃から“人を喜ばせること”、楽しいひと時を提供するのが好きでしたね。

それを実現するには、たゆまぬ努力が必要だということを理解するのにかなりの月日を要しましたが、自分の行動で沢山の人を楽しませたいという思いは、今も昔も変わらない気がします。


10年間浸った“吹奏楽の世界”

中学校入学から大学卒業までの10年間、全てのカテゴリーで僕は吹奏楽部に所属していました。

中学生時代の吹奏楽部入部に関しても、母からの強制に近い勧めがあったのですが、団体競技への苦手意識を拭えず、なかなか入部を決断できませんでした。

入部の直接的な理由は、当時打楽器パートに所属していた2学年上の先輩からの勧誘です。

部活見学に伺った際に、その先輩が他の誰よりも熱心に、心を込めて誘って下さっただけでなく、僕とのマリンバのデュエット(二重奏)も買って出て下さりました。

10年間の吹奏楽人生のなかで辛いことは山ほどありましたが、僕を本気で誘って下さったこの先輩には、今でも感謝しています。

僕の吹奏楽人生における最大のハイライトは、高校卒業から大学の入学式の間に行われた、ウィーンへの演奏旅行(卒部生として帯同)。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、楽友協会ホールで演奏という夢のような企画でしたが、音がじわりじわりと空気に溶け込んでいく、あのホール特有の音響は絶品でしたね。

【楽友協会、大ホール】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A5%BD%E5%8F%8B%E5%8D%94%E4%BC%9A

楽友協会ホールでの本番で、現地の人が拍手喝采で自分たちの演奏を称えてくれたことも、思い出深いです。

「楽友協会ホールで下手な演奏をすれば、たとえ相手が高校生であろうと、現地の人はブーイングを浴びせる」

ツアーコンダクターの方からこのような話を聞かされていたので、拍手喝采を浴びた時は、安堵感と嬉しい気持ちで満たされました。

日々妥協せずに音楽に取り組んでいれば、その真摯な姿勢は音楽の本場で生きている人たちにも伝わる。

これが、現地の人に喜んで頂けた経験から学んだことです。

人を喜ばせるために頑張ることは尊いと、改めて思えたひと時でした。


吹奏楽人生を終わらせた理由

ただ、僕にとっての吹奏楽人生は、息苦しさも混在するものでした。理由は3つあります。

1つ目は、集団の一員として何かを達成するより、ひとりで何かを創造するほうが性に合っていたこと。

もう少し深彫りすると、「全体の設計図は上の人が考えるから、あなたは与えられた役割をこなすことだけ考えなさい」という方針のもとで行われる物事に、前のめりな姿勢になりきれなかった。

全体像が見え、自分が全ての工程に関われる仕事や物事だと熱中できるのですが、吹奏楽はそうではないですからね……。

そもそも、合奏という行為が与えられたパート(役割)を忠実にこなすものですし、音楽の全体像を考え、演奏者に実行させるのは指揮者の仕事です。

さらに言ってしまえば、部活生活も基本的には顧問の先生から与えられた仕事をこなすのが中心。

部活動という集団行動が、そもそも性に合わなかったというのが結論になりますね。

2つ目は、自分のミスで大勢の人に迷惑をかけてしまうのが嫌だったこと。

ひとりでやっている物事(仕事)であれば、失敗しても僕さえ責任をとれば基本的に事足りますが、自分のせいで合奏が止まったり、合奏打ち切りになったりするのが本当に嫌でした。

人を喜ばせるのが好きであると同時に、自分のせいで相手を怒らせたり、周りがシリアスな雰囲気に包まれたりするのを恐れていた。そんな感じです。

特に中学生・高校生時代は、顧問の先生や先輩を含む周りの部員から後ろ指をさされないように振る舞うので必死でしたね。

「部活を続けた経験は、必ずあなたの財産になる」

この母の言葉を信じ、とりあえずは続けてみたものの、長く続けるうちに嫌気がさし、心身ともに疲れてしまったのも確かです。

3つ目は、部活生活において自分とは価値観が異なる人と折り合いをつけたり、自分の意見を伝えて周りの人を説得するのが面倒だったこと。

「事なかれ主義が過ぎたなぁ」と、今では冷静に振り返ることができますが、特に大学生時代の部活では末期症状に陥っていましたね。

こうした思いが年々積み重なり、演奏者として吹奏楽に関わるのは大学卒業をもって終了。

卒業後は就職浪人期間を経て教職に就きましたが、音楽を好きでない生徒に対してその真髄を説くことが僕にとっては荷が重く、指導者として吹奏楽に携わるのも2016年に辞めました。


新たに切り拓いた、サッカーライターへの道

吹奏楽と同じくらいに好きだったのが、サッカーでした。

学校の体育の授業以外での競技経験は無く、いわゆる“観る専門”の人間でしたが、小学生時代から好きでずっと観続けていました。

好きだった選手は、名古屋グランパスでプレイしていたドラガン・ストイコビッチと、ベルマーレ平塚(現.湘南ベルマーレ)や日本代表、イタリア・セリエAのペルージャやASローマなどで活躍した中田英寿。

日本代表が出場した、1998年のワールドカップ・フランス大会を皮切りに僕のサッカー熱が急激に高まり、今に至ります(笑)。

小学生、中学生時代は選手一人ひとりのプレイを堪能するだけに留まっていましたが、高校生あたりから監督采配の妙や、最先端の戦術にも興味を持つように。

戦術分析の第一人者、西部謙司さんの著書などを読み漁ったほか、海外クラブの指導者が来日し、戦術やトレーニングメニューに関するセミナーを開いた際には、極力参加するようにしていました。

周りの人から「文章が良い」と、なぜか褒められることが多かった僕は、2015年に教員を続けながら、サッカーキングさん主催のフリーペーパー制作企画(短期講座)を受講。

ここでライティングの基礎を習得し、サッカーライターとしての実績を作れたことが、今に繋がっています。


僕の人生理念

吹奏楽団の一員や吹奏楽指導者、そしてサッカーライターと、我ながら脈絡のない人生を送っていると思います(笑)。

ただ、表現の手段や携わる分野が変わったとはいえ、「自分の行動で人を喜ばせたい、楽しませたい」という欲求や哲学については一貫しているのではないかと、今振り返っても感じます。

サッカーライターとしての仕事を通じて、僕がやり続けたいことは以下の3つです。

①僕の記事を通じて、一般的には認知されていないその選手や監督、チームの魅力を伝える。これにより、日頃からその選手や監督、チームを応援している人々を喜ばせる(楽しませる)。

②戦績が振るわない選手や監督、チームに関しても、試合を細かく分析したうえで記事化し、サポーターの方々に現状を知ってもらう。

③戦術が急速にアップデートされているサッカー界において、選手や監督が何を考えながら試合に臨んでいるのか。これを伝えることで、より多くの人にサッカーという競技の醍醐味を知ってもらう。

サッカーに携わる全ての方々へのリスペクトを欠かさずに、今年も精緻な取材をもとに記事を世に出していきます。

既に僕のTwitterアカウントをフォローして下さっている方々、まだ見ぬサッカーフリークの皆さん。

今後も何卒よろしくお願い致します。

https://twitter.com/Shinyacalcio

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?