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フィルムカメラと光と生きること

久しぶりにフィルムカメラを使った。学生の頃にカメラに憧れて買ったけど、何回か撮ったもののその後使われず、5年ほど部屋の飾り物になっていたRollei35だ。

おそらく写真がじわじわ流行りだしてきた頃、それはインスタが登場したくらいの頃で写真が個人まで広がっていなかった頃だったと思う。趣味のひとつとしてフィルムカメラをやりたいなと思って、かっこいいと思ったRollei35をインターネットで買ったのだった。しばらくは持ち歩いていたが、いつしか使わなくなってしまった。どのくらい撮っていたのか思い出せないけど、ある日、自由が丘の坂道でフィルムを巻き戻そうとしたところ、巻き方が悪かったのかぐちゃぐちゃに破れてしまったことを思い出す。ポパイカメラで現像を頼んでたなあ。そんなに前でもないと思うんだけど、だいぶ昔のことに感じる。

海に行ったときに、ふと、テレビ台で飾りものになっていたローライを久しぶりに使ってみようと思った。テレビ台の下から取り出しフィルムの確認をしたところ、フィルムが入ったままだった。いつ入れたかわからないフィルムで、カメラもちゃんと撮れるかわからなかったので、テストのつもりで夕方の海で適当にパシャパシャと。

結果、すごくいい写真が撮れていた。

インスタが流行って、フィルムカメラが持て囃されていたのもあって、心のどこかで使うのを躊躇していた。自尊心や自己実現のために消費されていく写真に対して、やすやすと近づいてはならぬ、取り込まれてはならぬという思いがあり、写真との距離を測っていた。何のために何を撮るのか、何のためにその道具を使うのか、頭が柔らかいようで堅い僕は、このカメラを手にしていない期間、写真を撮る理由を探している自分があった。

時代も進み、写真の撮り方や、カメラやフィルム、はたまたデジタルとアナログについてさんざん話がされてきた。答えはないけど、その中でそれらとの距離が調整できてきて、自分の頭を柔らかくしたのかもしれない。新しくカメラを買うのではなく昔買ったカメラで、撮りたい画を求めるのではなくて日常の画を、楽しく撮ることができた。ほんとうに楽しかった!

愛しい人、犬たち。

この年末年始に撮った写真でやっと自分の写真を肯定できた気がする。消費されずに後に残っていくものとしての写真、自分が生きた証としての写真。そしてやっぱりフィルムがいい。物質として感光させることは、このフィルムの前にその光が在ったことの証明でもある。

今ある光もすぐに遠くにいってしまうことだってある。その未来が見通せる年齢になってきたからこそ、使う意味が見えたのかもしれない。

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