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映画<エリザベート1878>~静止画ではなく動画のひと~

オーストリア皇妃エリザベートはミュージカル、ドラマ、映画などのコンテンツとして非常に魅力的な素材なのかもしれない。
魅力の素は華やかな美貌だけではなく、異質さのある妃、だからなのかもしれない。
この映画の中に登場する、エリザベート、夫オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、従弟ルードヴィヒ二世などの高貴な人物は、ときおりバスタブの水に浸かる。
まるで水棲動物が、呼吸ができない陸から離れて、水に触れてやっと呼吸ができているように。胎内回帰のような安らぎを求めるように。
それは、限界に達していくエリザベートが、大きく深く呼吸ができる、より広大な水を求めていくことにつながっていく。
オーストリア宮廷で、エリザベートが異質な存在となってしまったのは、「動画のひと」が「静止画のひと」であることを要求されたからである。
史実でも、活発で乗馬好き、スポーティだったと言われるエリザベート。
エリザベートのフィジカルなエネルギーは、皇妃となってからは、美しい「静止画のひと」であり続けるために消費されるしかなかったようだ。
ハプスブルク王朝の美しい象徴でありつづける役目。決められたサイズのコルセットの殻を破ってはいけないという自らに課した義務。
画家に肖像画を描かれているあいだ、エリザベートは静止状態でいなければならない。
技術者が持ち込んだ活動写真撮影機(動画)に出会ったエリザベートは、動画の中で、表情豊かに無音で叫び、草原を飛び跳ねる。
静止していろ、という世界で生きねばならないエリザベートは、動かなくては意味がない!という動画の中で、息を吹き返したかのよう。
映画の中で、エリザベートが自ら手書きで紙に描いたのは、静止画ではなく、多数の紙に画を描き、アニメーションの原型のように紙をパラパラとめくると絵が動き出すもの。
エリザベートは静止画ではなく動画を描くひとなのである。動画を生きるひとなのである。
職業でも「静止画のひと」的なもの、「動画のひと」的なものがあると思う。
本質が「動画のひと」が「静止画のひと」的な職業をやり続けることを課されたら、苦しみでしかないだろう。
一方、エリザベートが愛する娘の皇女は、どうやら「動画のひと」というより「静止画のひと」のようである。
皇女がエリザベートに描いて贈った母の絵は、動画ではなく静止画で、それはセレモニーでエリザベートが「静止」しているときの姿。
病院の慰問の際、心を病む患者にシンパシーを抱くような距離感で接する母の姿を皇妃的ではないと好まなかった皇女。
セレモニーで顔を隠し(表情がない)無声で静止している「静止画」である母の姿こそが、皇妃の威厳を感じさせ、娘の心を打ったのである。
その娘の心は、感じ方は、別の理由でもエリザベートを傷つけることになる。
数々のエリザベートの肖像画(静止画)の向こうに、数々の動画を夢見たくなるのは、エリザベートが本来は動画のドラマが似合う人だからかもしれない。
静止画の遺産はすでに十分につくられ、動画のコンテンツはまだこれからも作り出されていくひとであるのが、「動く」ことこそ魅力的だったひと、エリザベートなのだろうと思う。

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