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映画<怪物>を12回、観た。~火の少年、水の少年~

これほどまでに何回も観た映画は初めて。
その違和感に気がついたのは、十回目の鑑賞のときだった。
湊の母、早織が、依里の家を訪ねるシーン。
依里は、キッチンのシンクの蛇口の水をガラスのカップに入れて、早織にどうぞ、と差し出す。そのあと、シンクの前に立ったまま、自分もガラスのカップに入れた水を飲む。
その依里の後ろに、すっかり使われていないようすの家庭用のウォーターサーバーが置かれている。それが、十回目で初めて自分の目に入ってきた。
水のタンクは当然、カラである。だから依里は、蛇口から水を飲むしかない。シンクの脇には、ワインの空ボトルの首が見える。
かつてウォーターサーバーのタンクには、水がたっぷりと満ちていたはずだ。
その水は今、依里の家にはない。
依里の父は、自宅の庭木に、ホースで荒っぽく水をまき、依里に与える水も、荒っぽい。(あのシャワー。)
依里が、どうぞ、と早織に差し出したような、優しい感情を伝える水は、依里の家からは失われているようだ。

そのとき、依里は「火」の影をまとって、シーンに現れてくる少年であることに気がついた。
早織と依里の初対面のシーンは、観客にとっても、はっきりと依里が姿を現す初対面、顔見世シーンとなるわけだが、依里には、小さな火の刻印のように腕の火傷があることが示される。
依里はチャッカマンを携帯し、火を起こす。もっと巨大な炎に関わっていることも示唆される。

一方で、湊は「水」の気配が漂う少年なのである。
小さい頃から目を覚ますといつも泣いている湊。
湊が携帯するのは、早織の母としての愛情を示す麦茶の入った水筒だ。
湊が顔見世シーン(ベランダから火災を見る)で着ている服は、水を思わせるブルーのグラデーションである。
湊が夜まで依里を待ち続けていたとき(狂恋めいた状態に沈んでいるようなとき)に来ていた服は、月のない夜の水底のような深く暗いブルー。
依里はベビースターラーメン(乾きもの)を、湊はパピコ(水菓子)を手にし、二人で食べるものは、ベビースターラーメンから、食パンにジャム、青いクルミ(まだ水分含有がある状態)と水気を帯びてゆく。

湊が依里に示す無心の愛情が最も現れているのは、「片方のスニーカー」のシーンも多幸感が溢れるが、依里のチャッカマンを湊が取り上げるシーンである、と個人的には強く思っている。
取り上げた後も、湊は依里のチャッカマンを紙に包んで、いたわるように、癒やすように、持ち続けている。
チャッカマン(火)は、依里の「水」への乾きを思わせる。
「自分からチャッカマンを取り上げてくれる誰か」を、依里は待っていた。
水は優しさ、豊かな感情を暗示していると受け止めても乖離はないだろう。
依里は、日々「何も感じないようにする防御」のキープが通常モードな少年だったから。それは豊かな感情を死なせるようなものだから。
湊が依里のチャッカマンを取り上げたのは、そうすることが依里を守ることに等しいと直感したから。
そして、湊は依里に「水」を与えることができる少年だったからである。
(第三の視点の湊の顔見世シーンで、泣きながら目を覚ます湊は、スマホに映る火災の画面の横に、無造作にペットボトルの水を投げる。湊という少年のコンセプトがいきなり提示させられているかのような、見事さ。)

炎で始まって、激しい雨へ向かっていくふたりの少年の物語は、「水の獣」が目覚めた輝きと祝福に満ちている。
…十三回目の「怪物」鑑賞へ、向かおう。

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