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時間について

一番重要なことは何に時間を使うかではないか。しかしこれは抽象的過ぎる。目の前のことに集中しなさいと精神医学は教える。そうすると脳の持っている能力を十分に使え、さらに無駄なことに使うのを抑えられる。

やりたいのにできないこととは一体何だろう。本当に望んでいることは何だろう。私はいまnoteの記事を書いている。これは本来、私の考えをまとめるために始めたことだが、読まれないとやはり気にはなる。文章は読まれるために書くものだからだ。それに付随して頭がまとまるという作用もあるだけの話だ。いまやらなければならないことは何だろう。

休日だから体を休めるのが一番大事だ。ということは十分にその役割は果たしている。つまり私は少し退屈しているのだ。退屈はよくない。脳が疲れてしまう。マインドフルネス的にいっても、他のことを考えてしまう。

小説を読むとして、「この時間は何の意味があるのだろう」と思うのは何なのだろう。つまらないわけではない。しかし読んだ時間は何になるだろう。役割で考えればおそらく何にもならない。休みなのだから、体が休まればそれはOKだ。だから間違ってもいない。何をするにも時間を使う。しかし、何にもならない時間つぶしに時間を使うのには抵抗がないのはなぜだろう。心はいつでも難しい。

文章はいつでも誰かに向けて、しかも教える目的で書かれる。しかもそれは誰にでも配慮されたおもしろ味のない内容になる。いまここ、私にしかない体験をしたいのかもしれない。考えることは普遍の宇宙から最終的にいまここの現実を見ることにある。であれば、文章を読んで最後には自分のことを考えねばならない。本を読む目的の一つは、いまここに戻ってくることにある。というのも、文章を書いた人もそのときその場所ですいまここを文章化したはずだからだ。共感とはそういうことだろう。

文章は時間を超える。それだけに自分でいまここに話を戻さないといけない。読むとはそういうことに違いない。

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