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日記は難しい、でも必要な技術という話

「文章という道具は現実のすばらしいところをこしとってしまって、しかしそれゆえに人々に伝わる知識や技術を伝達できる」と書いたが、日記というものを考えるとき、これは実は高度な技術ではないかと思った。日記はもちろん文章で書く。しかし、日記が対象とするのは現実の細々とした日々変わる部分だ。ということは道具のメリットを活かせないばかりか、デメリットを拾っているような気がする。しかし成立しているのだから、何かテクニックや隠された技のようなものがあるといってもいいだろう。

日記に書かれることをまとめることは精神衛生上はいいが、日記としては意味がない。であれば、日記はそのまま保存するのがよく、邪魔というそしりを受けつつも、残しておいて、たまに見返すというのがいいのだろう。

ここで、私の昨日の日記(描ける範囲の)を使って日記とはどういうものなのか考えてみよう。駄文なのは許してほしい。ただのサンプルだから。

昨日は仕事が休みで、そのため、妹の家に子どもの監視に行った。監視というと物騒だが、何か変なことをしないか見守るということだ。妹の家に行くと、子どもたちはYouTubeを観ていた。妹はいつものように疲れていた。それが終わると休日いつもやっているらしいワーク(勉強)をやっていた。それから家の前で外遊びをして、昼ご飯を食べた。午後はおもちゃで少し遊んだ後、お風呂に入った。それからまたYouTubeを観て、ワークをまたやって、ご褒美に崖の上のポニョのジグソーパズルをやって、私の帰る時間になった。この日は16:30ごろから雨が降ってきて、いつもやっている散歩をせず、本を読んだ。

以上が昨日の日記だが、noteの特性上、個人情報的な部分は削られている。抽象化されているということだ。ここからすぐにおもしろさはだいぶなくなっていることがわかる。これは腕の問題もあるが、道具の問題でもあるのだ。

続いて、子どもたちの行動がメインの記述になっているが、要するに監視の都合上、私が気にしているのはそれだということになる。日記とは単線の記録なので、どうしても個人の気になっていることに限定されてしまう。ここも結局道具の問題だ。

では、優れた日記は何がすごいのかを考えよう。この日々の記録には適さない道具を使って、描くとすれば、おそらく何かしら神性を持った力が必要だろう。

まず優れた日記は着眼点がすばらしい。人が気づかない小さな変化を逃さず見つけて記録する。これは感性の問題で、いつでもおもしろいことを探している人とか、いつも悩んでいる人とか、そういったセンシティブな人がこの力を持つ。したがって、文筆家は恐ろしいほどのセンサーを持った地震計ような人だ。

また、優れた日記は文章の書き方がすばらしい。構成や心に残る格言など、そういった人を喜ばせる装飾に満ちている。ただ何々があったと書くなら人は読み飛ばしてしまう。だから文筆家はテクニシャンであり、アーティストだ。

さらに、日記の性質上、全部は書き込めないため、選択する必要がある。どんなことを主題にするかとか、何をいおうとか、そうしたことは自然と選択されなければならない。だから文筆家は決断の人でなければならない。

ここまで見てくると、自分には日記を書くのは無理な気になる。ちゃんとした日記を必要とする人であれば、記録係を雇うべきだろう。とはいえ、一般個人にはそんなお金はないわけで、自分で書くしかない。しかし自分で書くことのメリットもあり、それは日記の性質から来ている。単線的なのでまとまらなくてはいけないのだ。だから書くと考えがまとまったりする。

まとめ

  • 文章は欠陥というくらい日々の記録に適さない道具だ。

  • だから日記は本当に難しい。

  • ちゃんとした日記がほしいのであれば人を雇った方がいい。

  • しかし自分で書くと考えがまとまるというメリットもある。

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