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文章論と凡人についてのまとめ

昨日の記事において、どうでもいい文章が溢れている話はした。それらすべてを読めるならいいが、凡人にそんなことは無理だ。ということは取捨選択しなくてはいけないことになる。ネットにはたくさんの文章が漂っている。それをこれは読まない、これは読むと選ばなければならない。だから大半は駄文なのだから、文章は読まなくてもいいという人が出てくるのもわからないではない。そもそも世の中の流れが、メッセージを読み取るというのから離れていっている。歌にメッセージを込めるのはそろそろ時代遅れだ。何も表現しないけれどもなんかいいというのがいま求められている。人々は疲れている。

たとえば、いつでも動画、画像、音に溢れている現代人は、何も見たくないのに何でも見たい。特にいまでは自分が選んだものを見ることになる。であるならば原因は自分にあることになって、結局、私たちは自暴自棄になったりする。だから礼儀に適っていないものは炎上する。もう耐えられないのだ。そこから意味を引き出す作業をする余裕が私たちにはない。

であるならば、ネットから離れることが必要かもしれない。しかしそれが凡人にはできない。というのも凡人は社会的動物だから、みんなに合わせることで幸せだからである。そしてありきたりな出来の悪い物が溢れることになる。そして承認欲求が起こり、ネットに上げずにはいられなくなり、また悪循環になる。つまりはnoteとはその最たるものではないか。みんなが自分が読まれたい、しかし他の人の文章はもう飽き飽きしている。ならば、市販の本を読めばいいかと思って本を手に取ると、お金をかけたのに、大した効果がない。それはそうだ、読む能力を必要とするからである。しかも凡人が浴びたいのは大量の心地よさであって、読むことではない。

そうなるとまた、この意見に戻ってくる。つまり、大量の情報には意味があるが大量の作者にそれがよる必要はない。いい換えると、文章を読む文化を継続させるのであれば、少数の優秀な筆者にだけ文章を書かせるべきである。それを大多数の人が全部読まなければならない。凡人は書いたものを発表してはならない。そして、それは自分のためだけに取っておかなくてはいけない。または、それを読める人のために。

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