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僕が考える多様性


多様性というより慣れ。

ぼくは正直、多様性って慣れじゃないかなって思うんだ。

昔から僕の周りには色んな人がいた。
発達障害の人、レズ、ホモ、事故によって後遺症が残っている人、話せない人、引きこもりの人。

ある意味恵まれた環境だったかもしれない。

幼い頃からそういう人たちを見てきたから
男が男をすきになることも、女が女をすきなることも、上手く話せない人も、周りに馴染めない人も、僕は当然だと思っていたし、そういう人達を珍しいとも思わない。

結局、自分と違う人とどれだけ接してきたかが重要ではないだろうかと思う。

自分とは違う人がいる。心でも体でも、その違いをどれだけ見てきたか、どれだけ慣れるかだと思う。


高校生の頃、ホモの友達がいた。
テニス部の合宿に行っても大浴場には姿を表さなかった。

「興奮してしまうから」だと言っていた。


その友達からすれば、性的対象が全裸でいるのだから当然だろう。

入ることも出来たはずだ、同じ男の体をしているのだから。でも彼はしなかった。

彼なりの気遣いなのだろう。
興奮するのは自由だが興奮された側の気持ちを気遣ってくれていたのかもしれない。


ホモという人がいる。
自分とは違う人がいる。

僕はそれを知っているから、過去に知ることが出来たから僕にはその偏見がない。

ホモだと言われても驚かない。

慣れたから、そういう人達をぼくはずっと見てきたから、知っているから慣れているから。

慣れているという表現があっているのかどうかは分からない。

彼らを知っているから僕は多様性などという言葉など無くとも尊重できる。


でも僕はまだ慣れていない人たちがいる。

僕はまだ外国に行ったことがないから
外国人が集団で前から来たら少し避けてしまう。

慣れてないから、彼らを知らないからだろうな。

知識として知っているだけで
彼らを知っている訳では無いから避けるのだろうな


多様性のためにできることは
学び、知り、触れ、慣れること。

肌の色も性的思考も国籍も慣れじゃないのだろうか

よく行くところだったりよく知っている人を贔屓目に見てしまうように。


寛大な心を持つとか
なんでも尊重するとか

そんなことよりまずは

彼らを知ることから始めてはどうだろうか。

学校とかで他国と、思考が違う人と繋がる機会を作り慣れる時間を作るのがいいのではないだろうか

子供のうちに慣れておくことがいいのではないだろうか。


素人の考えだから
相手にもされないかもな

まあでも多様性の時代ですから。

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