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祖父について語るとき(中編)

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日米開戦の報を聞きながら、1942(昭和17)年を迎える。

一月二日、マニラ占領。二月十五日、シンガポール占領。三月一日、ジャワ占領と、戦局はまさに破竹の勢いである。青年学校助教諭も兼ねていたから、あまり年齢の違わない生徒諸君と熱っぽく語り合い、部落民の集会では日本は負けないと一席ぶった。内容の乏しい薄っぺらな精神論に過ぎなかっただろうが、このころは真剣そのものだった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p86)

祖父が小学校教員と兼任して助教諭を務めた青年学校とは、1935年(昭和10)に設立された勤労青年のための定時制の学校だ。「皇国青年ヲ練成スル」ことを旨とし、特に男子は軍事的な予備教育を通して優秀な兵を獲得するところにねらいがあったという。

あらかじめ先取りしておきたいのは、祖父が教師として無批判に軍国主義を称揚していたことを、のちに猛省していたことだ。1947(昭和22)年、過酷なシベリア抑留から復員し、故郷に帰った29歳の祖父は、占領下の日本が大改革を遂げていたことを知らないまま、「戦前の意識、感覚のまま」社会に放り出され、再び小学校の先生となる。

戦前は善かれあしかれ進むべき目標があった。特に戦争中は、戦いに勝つことの一点に集中して、わき目も振らずにまっしぐらに進めばよかった。こうした意識心情をもったまま、一八〇度の大転換をした戦後の日本に、いきなり対決させられては戸惑いするのが当然だろう。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p151-152)

察するに余りある当惑である。しかも、祖父自身は戦中、「大東亜共栄圏建設を信じて陸海軍や満蒙に教え子を送」ってきた者であった。そのあたりの経緯をもう少し見ていこう。

1942年4月、自身の三番目の勤務校である稗貫(ひえぬき)郡外川目(そとかわめ)国民学校(現花巻市)に赴任してからも、「撃ちてし止まん」「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと、さまざまな活動を展開したという。
高等科(現在の中学校1〜2年に相当)を担当する祖父は、手旗信号やモールス信号も教えた。体育では敏捷性の向上を目指し、男子生徒のほとんどが空中転回(!)ができるようになった。剣道の号令が「面を打て」から「面を切れ」に変わった。戦時下の国民学校は皇国民の練磨育成(錬成)に明け暮れていたのだ。

高等科卒業予定者には、陸海軍の少年兵、満州開拓団員への志願、軍需工場への就職などを勧め、《おれも行くから君も行け》と、あおりそそのかした。敗戦後における私の戦犯意識の源泉はこの辺りから出ていると思う。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p94)

自伝の中でもっとも痛切な反省が描かれている箇所であるが、村上作品との大事な接点がここに出てくる。「満州開拓団員への志願」だ。これは『1Q84』の天吾の父を想起させる。

天吾の父親は(中略)東北の農家の三男に生まれ、同郷の仲間たちとともに満蒙開拓団に入り満州に渡った。(中略)有事の際は銃をとれる開拓農民として基礎訓練を受け、満州の農業事情についてのまにあわせの知識を与えられ、万歳三唱に送られて故郷をあとにし、大連から汽車で満蒙国境近くに連れていかれた。そこで耕地と農具と小銃を与えられ、仲間たちとともに農業を営んだ。

(『1Q84 BOOK1』p169)

あるいは天吾の父も、祖父のような教師から開拓団入りを勧められたのかもしれない(ちなみに外川目村は典型的な山村で、農村ではなかった)。

さて、生徒に向けて放っていた「おれも行くから」は本心から出ていたようで、戦争が激しくなってくるにつれ、祖父自身も「いても立ってもいられない気持ちにさせられた」という。

祖父をはやる気持ちに駆り立てた戦局を簡単に記しておく。

1942(昭和17)年 東京初空襲。ミッドウエー海戦。ガダルカナル苦戦。
1943(昭和18)年 スターリングラードでドイツ軍降伏。ガダルカナル島撤退。アッツ島玉砕
1944(昭和19)年 トラック島大空襲。サイパン島陥落

一体日本はどうなるだろう。じっとしてはいられない。学徒動員はすでに始まっている。何をぼやぼやしているのか。おれも銃を取らなければならない、と、二十歳台の血が騒ぐのを止めることができなかった。思い余って盛岡の連隊区司令部あてに、軍へ志願したい旨の手紙を出したところ、次代の国民を教育することも大事だという回答をもらった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p96)

熱い思いに冷や水を浴びせられて消沈する間もなく、ついに祖父の元に召集令状が届く。1944(昭和19)年、9月19日。終戦まで1年を残すのみというタイミングだ。このとき祖父26歳。秋田の東部第五七部隊への入隊を命じられる。

9月25日、入隊手続き完了(歩兵二等兵)。外地要員として近く送り出されるため、兵舎に入らず三週間ほどは旅館住まいだったという。

外地というと、このころは南方か満州の二択だったようだ。案の定、満州への派兵が決まる。秋田から軍用列車で広島へ、宇品港から輸送船で釜山へ、さらに朝鮮半島を縦断して満州に入り、ハルピンに到着したのが10月17日だった。そこで祖父らを迎えたのが満州第二〇九部隊である(第一七八連隊が正式名称だが、防諜上、その呼称は避けられたという)。
この連隊が所属する師団は第一〇七師団であった。師団は第九〇連隊(既設)、第一七七連隊(新設)、祖父の第一七八連隊(新設)の三個連隊で構成される。祖父の所属を階層状に示すと以下のようになる。

第一〇七師団 →  第一七八連隊(第二〇九部隊) → 第二大隊 →  第四中隊 →  第四班 → 内務班

召集された私の落ち着き先は、このピラミッド組織の再(ママ)末端に用意されていた。
精強を誇る関東軍の南方方面転用の穴埋めに、われわれのような弱兵で補充をせざるを得ない状況に追い込まれていたものであろうが、新兵を除けば我が二〇九部隊はその装備、士気ともに充実した部隊だった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p103-104)

実際、敗戦から2週間たっても、ハルピン西方の大興安嶺(だいこうあんれい)でソ連軍と戦い続けたのが第一〇七師団あり、第一七八連隊(第二〇九部隊)だったそうだ(祖父は後述のように別行動をとる)。

中隊は戦闘の単位だが、平時においては「兵士の家庭」であったらしい。中隊長(「おやじ」)を中心に内務班の生活を通じて、新兵を一人前の軍人に仕上げていく。起床ラッパから消灯ラッパまで寸暇もない。また、祖父は2回、上官からビンタをくらったという(「目から火花が出るとは聞いていたがやはり本当だった」)。とはいえ、しつけは厳しいことはあってもむちゃくちゃなことはなかった(らしい)。しかし、10月のハルピンは冬の季節で、北満の冬は零下三十度になることも珍しくなく、これには大変苦しんだようだ。

ここで『ねじまき鳥クロニクル』から、綿谷ノボルの伯父と満州との関わりの場面を引用しよう。

綿谷ノボルはまたある文章の中で満州国について言及していて、僕はそれを興味深く読んだ。彼はそこで帝国陸軍が昭和の初期に、予想されるソビエトとの全面戦争に備えて防寒着の大量調達の可能性を検討していたことについて書いていた。

(『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』p271)

綿谷ノボルの伯父はのちに政治家となり、綿谷ノボルがその地盤を継ぐことになるわけだが、若いころは陸軍大学出のロジスティックス(兵站)を専門とするテクノクラートであった。彼は参謀本部に設置された対ソ戦争仮想研究チームの兵站部門で寒冷地特殊被服の研究に携わる。

陸軍の防寒被覆はもう少し穏やかな北中国の冬を想定して作られていたものだったし、絶対的な数量も足りなかった。(中略)北方で長期的な対ソビエト戦を戦い抜くためには、日本国内における飼育綿羊の頭数は明らかに不足しており、その結果満蒙地域における安定した羊毛(および兎等の毛皮)の供給、および加工施設の確保が不可欠であると考えられる、とその報告書は述べていた。そして状況視察のために昭和七年、建国直後の満州国にわたったのは綿谷ノボルの伯父だった。そのような供給が満州国内で現実的に可能になるまでに、どれほどの期間が必要とされるかを算定するのが彼の任務だった。

(『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』p271-272)

祖父の師団は「もう少し穏やかな北中国」に駐屯していたため、綿谷ノボルの伯父が検討していたほどの防寒着は必要なかったかもしれない。
それにしても「日本国内における飼育綿羊」というワードは、『羊をめぐる冒険』の「先生」や羊博士、十二滝町を想起させる。

綿谷ノボルの伯父は、奉天で石原莞爾と差し向かいで一夜飲み明かしたことがあり、兵站の強化、すなわち新生満州国の急激な工業化、自給自足経済の確立、農業移民の重要性がその場で説かれたという(またしても「農業移民」の話が出てきた)。

また、綿谷ノボルの伯父は防寒被服の問題を近代兵站のモデルケースとしてとらえ、徹底的な数字的分析を行なった末、報告書において「冬季におけるソビエト軍との戦闘は現段階にては遂行不可能」ときっぱり言い切った。

1939(昭和14)年のノモンハン事件の手痛い敗退後、秋の始めに早期終結したのは、この報告書が「一役買っていた」という。そして、軍部の目はしだいに南方に向けられるようになる――。その後、ソビエト仮想戦研究班の活動は尻すぼみになっていったというが、戦争末期にそのソビエト軍との戦闘(夏だけど)に間宮中尉、そして私の祖父がかかわるというのも、何らかの因縁を感じずにはいられない。

さて、明けて1945(昭和20)年、祖父は幹部候補生の試験を受け、合格する(上等兵)。候補生だけを集めた三か月余の集合教育ののち、第二次試験を「トップの成績」で通過し、「陸軍兵科甲種幹部候補生」(甲幹)を命ぜられた(伍長)。
中隊に戻ると、いきなり下士官室を与えられて当惑したようだが、特に何もすることもなく、食事も運んでもらえるし、他の部隊や満州国軍の兵隊から敬礼を受けたりと、まんざらでもなかったようだ。

6月末、予備士官学校へ派遣となる。思い返せば、これが運命の分かれ道だった。学校は「牡丹江(ぼたんこう)市から南六〇キロ程のところにある」石頭にあった。「石頭」は「いしあたま」ではなく「せきとう」である。関東軍の戦車隊が南方方面に転用された跡地に学校はあった。
祖父は入校後間もなく、ほかの新入生とともに軍曹の階級に進んだ。「階級が上がっても教育中は下級者がいないから初年兵とほとんど変わりがない」と謙遜(?)するが、スピード出世には間違いないだろう(大学出の間宮中尉は、最初から少尉として新京の関東軍参謀本部に着任しているので比べるべくもないが)。

満州は冬の寒さのみならず、夏の暑さもまた格別だったそうだ。汗と泥にまみれてはい回る陣地攻撃、対戦車肉薄攻撃(後述)などの猛訓練が連日続く。こうして目まぐるしい1日を過ごしているうちに運命の日がやってきた。ソ連軍の侵攻である。

私は一九四五年八月十三日のハイラル郊外の激しい攻防戦で機銃弾を受け、地面に倒れたところをソ連軍のT34戦車のキャタピラに踏み潰されて左腕を失いました。

(『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』p369)

間宮中尉が戦ったのは満州国北東部のハイラルなので、祖父のいた南東部の石頭とはだいぶ離れているが、間違いなく同じ戦闘である。

祖父がソ連侵攻の報を受けたのは8月9日の未明で、翌10日には遺書をしたため、出動準備に入った。なお、祖父は独身のため兄あてに遺書を書いたそうだ。

当時、候補生は6つの中隊で構成される教育隊に編入されていた。祖父は第二教育中隊第一区隊に属していた(南雅也『われは銃火にまだ死なず』(光人社NF文庫)によると、祖父が名前を上げている区隊長は第一教育中隊第二区隊のようだが、そのままとする)。
いずれにしても教育隊は本来、戦闘部隊ではなく、侵攻にあたり候補生をそれぞれの原隊に帰すか、部隊を編成して迎撃に当たるかの選択があったが、後者が採択され、出陣部隊が編成される。

祖父は荒木連隊第一大隊(猪俣大隊。920名。祖父の著書では750名)の第二中隊に配された。

荒木連隊第一大隊
――  本部         猪俣繁策大尉
―― 第一中隊
―― 第二中隊  本部   太田賢助中尉
              若槻秀雄見習士官
         指揮班長 若槻秀雄見習士官
              (後任)阿部恭候補生
         第一小隊長 向井彰候補生
         第二小隊長 中村秀喜候補生
              (後任) 豊田勲候補生
         第三小隊長 山本雄吉候補生
―― 第三中隊
―― 配属機関銃中隊
―― 配属歩兵砲中隊

太字が祖父である。祖父が第二中隊の指揮班長の後任となった経緯は後述する。
まずは、順を追って状況を見ていこう。

八月十一日夜半、非常呼集がかかり、「ソ連軍侵攻に反撃を加えるべく荒木連隊は直ちに出動せよ」との命令が伝達された。(中略)午前零時過ぎ、各中隊ごとに隊伍を整え、荒木連隊は、駆け足で石頭駅まで八キロの道を完全軍装の重さも何のその必死に突っ走った。第五軍の命令では、
① 荒木連隊の主力は掖河(えきか)において牡丹江防衛の陣地構築をして敵を迎撃すべし。
② 一個大隊を直ちに磨刀石(まとうせき)に派遣し、野戦築城連隊の指揮下に入らしめ、敵機甲部隊の侵入を阻止し、撃滅すべし。
とのことであったから、荒木連隊長は第一大隊を磨刀石へ派遣することとした。
こうして命を受けたわれわれ猪俣大隊約七五〇名は、前線から続々後退してくる友軍を尻目に前進を続けていった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p113-114)

祖父の属していた荒木連隊第一大隊(猪俣大隊)は上記の②の命を受け、一路磨刀石を目指す(もし祖父が①の「荒木連隊の主力」に属していたら、と想像せざるをえない)。
しかし、石頭駅から貨車に乗り磨刀石駅に到着しようとする午後3時ごろ、部隊は敵機の爆撃と機銃掃討を受ける。南氏の著書よりその際の情景描写を引用する。

無蓋貨車がガクンガクンと速度を落とし、磨刀石駅へ停車した時だった。
「おいッ、あれは何だ! 友軍のか?」悲鳴のように叫ぶ声がした。下車が始まろうとしていた。突然、駅北側の山側から山肌すれすれに縫うような超低空で、緑色の三機編隊が迫って来た。
「敵だーッ。退避ッ、退避ッ」たちまち騒然となる。爆音は、ほとんど聞こえなかった。バリバリバリッバリバリバリッ、機銃掃射だ。(中略)第一中隊の田中通剛候補生はその時、貨車の下にもぐり込んでいた。(中略)突然「ウウ……」と肺腑をえぐられるような呻き声を彼は聞いた。(中略)一中隊長吉橋幸一少尉が腹を押さえてうなっていた。

(南雅也『われは銃火にまだ死なず』(光人社NF文庫)p47)

結局、第一中隊長は戦死。ほかにも候補生十数名が戦死および負傷した。祖父も「初陣にはきつい洗礼だった」と述懐する。

同日夜は、磨刀石の満人部落周辺に野営し、翌12日、敵機甲部隊を迎え撃つ陣地構築を開始した。

わがほうの装備は前に述べたとおりで、歩兵としてはまずまずのものであるが、独ソ戦線で活躍したソ連の戦車を迎撃するには、相当の火砲と何よりも戦車がなければならない。しかし火砲と言えば、後方に位置する一五サンチ榴弾砲が二門あるだけで、戦車はないし飛行機もない。ただ一つの戦法は、爆雷を背負って敵戦車に体当たりする肉薄攻撃(肉攻)以外にはないのだ。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p115)

敵戦車に対し肉薄攻撃(肉攻)を試みる者は、おそまつな急造爆雷(黄色薬を梱包したもの)を背負い、敵戦車に飛び込む。そのために身をひそめる穴をタコツボといい、肉攻手は自らの手で穴を掘ってここに隠れ、タイミングを見計らって敵戦車にとりついたのち手榴弾で自らを吹き飛ばし、黄色薬を誘爆させる。「人間魚雷や神風特攻隊と同じ発想のもの」である。

私は前にも申し上げたとおり新京の参謀本部兵要地誌班に属しており、ソ連参戦があればすぐに後方に撤退することに決まっておりました。しかし私はあえて死ぬるつもりで国境に近いハイラルの部隊に志願転出し、部隊の先頭に立って、地雷を手にソ連軍戦車隊に肉弾攻撃を挑んだのです。(中略)それは本当に空しい自殺行為でした。私たちの使用したちっぽけな携帯地雷では大型のT34にはとても歯が立たなかったからです。

(『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』p369)

間宮中尉が「死ぬるつもり」で行った肉攻を、祖父の部隊も実際に行う準備を始める。

そして、祖父にもターニング・ポイントが訪れる。12日夜、祖父の属する第二中隊の指揮班長・若槻秀雄見習士官を長として、第二中隊第二小隊30名からなる「挺身切込隊」を編成して出撃させることになった。しかし、夜襲をかけた挺身隊は、敵に若干の損害を与えたようだが、決定的なものではなかった。若槻隊長ほか多数の候補生が帰ってこなかった。

明けて13日、若槻見習士官が戦死したのち、祖父は太田中隊長から「貴様が指揮班の指揮を執れ」と命ぜられる。祖父はさらっと書いているが、敵戦車の上に乗っかり奮闘した末に戦死した者の後釜と考えると、あまりぞっとしない。

この日の正午過ぎ、敵戦車部隊が進撃を開始。ついに鉄の塊に対する肉弾の戦いが始まる。この戦いの描写を、奇跡的に生還した南氏が著書で詳述しているが、指揮班の祖父はそれを「後方の小高い陣地から見たものと同じ光景」だとしている。

死闘は日が暮れるまで繰り返された。優勢な敵戦車軍団の進撃を一時はくい止めることができたものの、ついに我が第一線は突破されてしまった。大隊本部も真っ先に集中砲火を浴びて混乱状態に陥り、各中隊との連絡が絶え指揮不能となった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p121-122)

夜になると、陣地には静寂が訪れた。死を免れた肉攻兵たちは掖河方面へ脱出を始め、祖父もそれにつき従う。

14日の朝、掖河にたどりつく。掖河は牡丹江の北1キロに位置し、荒木連隊の主力が陣地構築している場所だ。だがここで牡丹江への撤退命令が出て、祖父は市内の小高い塹壕に陣取る。ここで一戦を構えよう、「ここがホントの死に場所だ。矢でも鉄砲でも持ってこい」と、いわば開き直りの心境になったという。
だが、15日、意外なことにまたしても撤退命令が伝えられ、横道河子(おうどうかし)という町まで後退する。一夜明けて16日の夕刻、思いもかけず「戦争は終わった」と伝えられた。あまりにもあっけない幕切れであった。

このときの心理状態はどう表現したらよいのか分からない。茫然自失、頭の中が空白になったとしか言いようがない。この後、武装を解除されて丸腰になる。しかしこの段階では、まだ捕虜になるなどとは思ってもいなかった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p123)

ここで自伝は章を改めるが、最後に祖父は「磨刀石戦闘雑記」として当時の心境を追記している。

まず、「磨刀石の戦闘記録」について。
この戦闘は敗戦直前のわずか半日の戦いであった。それは関東軍全戦線の一局地戦にすぎないし、まして太平洋戦争全体から見ればけし粒くらいなものだろう。したがって客観的に記録されている資料はなく、当事者の体験記(前掲の南氏の著書など)ぐらいしか見られない。このことを『シベリア抑留』(講談社文庫)の著者、御田重宝氏は次のように述べているとして、祖父は著書に引用している。そのまま引いてみる。

《石頭予備士官学校の生徒のうち六五十人(ママ)は、実戦経験をもたない学生集団だが、ソ連参戦と同時に、前線行きを命じられた。すでに前線からは邦人や兵隊が後退していたが、若い使命感は後退を承知せず、牡丹江市から東北へ進んだ磨刀石でソ連戦車隊とぶつかり、肉弾戦を展開。わずかに百五十人が生き残った。
こうした戦闘は各地で見られるが、公文書としては書かれず、生存者の手で書き残されたものだ。》

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p126)

満州開拓団員だった『1Q84』の天吾の父は、親しくなった役人からソ連侵攻の確度の高い情報を得て、早々に満州を脱出した。一方、同じ状況で間宮中尉は自ら死を求めて「肉攻」を試みる。祖父は「肉攻」を目の当たりにしながら、後方にいたため生き残る。

祖父は「「死」について」という項で、このときのことを総括している。

私は中隊の指揮班に属し、陣地の後方に位置していたから生き残ることができた。またそのためいわゆる武勇伝らしいものは何もない。その私も牡丹江の塹壕で、ここが死に場所だ、ここからは一歩も後退しないと決意したことは先に書いた。
また磨刀石の戦闘で、もしも私が肉攻手として、例の急造爆雷を背負って敵戦車に体当たりすることを命ぜられたら、果たしてこれを実行しただろうか、怖くなって尻込みをしたではなかろうか、などと考えてみた。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p124)

しかし祖父は「結論は間違いなくタコツボから飛び出して、南氏が描いた肉攻手のように、木っ端みじんになったであろう」と断言している。

一方、死線を逃れ、後述するシベリアの捕虜生活も経験した自分は、復員して日常生活に戻っても「あの時あのころのことを考えれば、どんなことにぶつかっても恐るるにたらずだ」などと考えていたという。しかし、戦場のような異常な場面での「死」と、本来の意味での「死」は違う。

やはり「死」は怖い。そして死の意味を考えることを無意識に避けてきている。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p125)

たぶん、天吾の父も間宮中尉も、復員した祖父と同様、本当の意味で死の意味を考えることはできなかったのではないだろうか。戦争という「有事」は、その落差でもって日常という「平時」において生や死に向き合うことの難しさを浮き彫りにするのである。

→ 後編へ続く

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