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わたしの不妊治療記①



はじめに

不妊治療といっても、人により向き合い方が違う。
辛いといっても何が辛いか人によって全然違う。
だけど、みんなめちゃめちゃ頑張ってる。

今わたしの不妊治療は、また継続するか否か舵をきる一歩手前にいる。
このnoteを読んでくれる方は、今どこにいるのだろう。

わたしの不妊治療記が誰かの心に届くといいなと思い今日は書こうと思う。

夫婦の価値観

わたし達夫婦の価値観は結婚当時こうだった。

夫は子どもが欲しいというより子どもがいて当たり前くらいの感覚を持っていて、私自身は子どもができることで、自分の生活に制限がかることに抵抗があり積極的な気持ちはなかった。

この価値観のズレで何度も衝突した。

しかし気持ちを置いて進むのは時間で、女性の妊娠にはタイムリミットがある。
32歳でわたしは、正社員からフルタイムパートに転職した。
転職後1年程は仕事に専念したい思いがあり、その後タイミングをとる妊活が続いたがなかなか授からなかった。
そして、当時通っていた婦人科の勧めもあり半ば流れで不妊治療のクリニックへ行くことになった。

不妊治療前期(人工授精)

通算約4年、不妊治療をしているので前期と後期に分けて書かせてもらおうと思う。

ゆるく不妊治療をstartさせようと思っていたが、そうはいかなかったし夫婦でも沢山衝突した。

不妊治療専門のクリニックの門を叩き、すぐに卵管造影検査で右の卵管閉塞が確認された。
そのため、わたしの不妊治療は左の排卵周期に合わせて人工授精を行う計画から始まった。

しかし、左の排卵が毎月やってくるわけでなくパートといえども、ここは休めないという日もある。
そんな日々が重なって半年~1年程かけて、3回程人工授精をしたように思う。
それでも、毎回妊娠検査は真っ白で本当に赤色の線など存在するのか、都市伝説かくらいの気持であった。

不妊治療をはじめ2年目に突入するあたり、月経時の症状がだんだんと重くなり違和感を覚えたため不妊治療の子宮鏡検査でお世話になっていた医大を受診した。

【粘膜下筋腫】ではないかと診断されたが、その時点では不妊に影響するものではないとのことで、引き続き様子を見ることとなった。
半年ほど様子を見ても、授かれない。

不妊治療のクリニックでも、そろそろステップアップ(体外受精)も視野にと話を受けていた頃、最初は「頑張りましょう^^」といっていた先生方のトーンダウンも見られはじめ、わたしの気持ちも徐々にガタガタと音を立てていったと思う。

モチベーションの低い不妊治療の闇

不妊治療というと、子どもを強く望む方が治療されるものだろう。
わたしはというと、不妊治療に対してモチベーションが低かった。

時間の焦りから治療してい為、常に仕事への影響と葛藤していた。
子どもと仕事を天秤にかけた時に仕事の方というか、自分の自由がなくなることへの不安が大きく重かった。

ただ、不妊治療とは意思決定の連続である。
計画通りなど進まないが、それでも意思決定し服薬、体調不良と戦いスケジュール管理していかないといけない。
それが、「子どもが欲しい」一心であれば前に進む原動力になるのだが、わたしは当時常に葛藤を抱えていたため、一心になれなかった。
それが、とても苦しく辛かった。

周りに、そんな思いで不妊治療をしている友人などいなく、こんな悩みを吐露しても「そのくらいがいいよ~」と励まされ、そうだよなぁ・・みんな必死なのに何言ってんだろうと、苦しい時期であった。

不妊治療と仕事の両立は、今や当たり前。
当たり前になっているからこそ、気づかないこともある。
わたしは、色々重なり途中で離脱したのだが。

不妊治療してるから偉いとかでなくって、
わたしは当時気がつかなかったから言わせて欲しい。
みんな頑張っていますよ。
本当にお疲れさまです。

渦中はこんなこと、苦しさも辛さもたいしたことないって思ってた。

だけど、もう不妊治療も佳境に入る中、
「本当に本当によく頑張った」って手を握って言われて涙が出た。

だから、もう十分頑張ってるから、頑張ろうとしないでって伝えたい。