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シンプルに生きる

生まれてから今年で40年を迎えた。
昔でいう初老というやつだ。
何か変わるのかという大きすぎない程度の期待もあったが現実はそんなにロマンチックなものではなく、原因不明の体調不良になり、かと思えばインフルエンザにかかってダブルパンチで自由を奪われ、見えない力に拘束される日々を送っているところだったりする…

そんな中、それでもと思い40歳を迎えて思うところを書きたいと思う。

少なからず大人として生きてきた過去はあれど、結局人間の本質は変わらずいまだに中途半端な考えで人生に迷いを感じたり、自分の存在意義を考えたりしてしまう。
別に悪いことではないと思うし、他人と比べてということでもないのだが、正直言ってなんだかしっくりきていない感がすごい笑
というのも、お金も時間ももっとあるという人生余裕モードになっているはずが、いまだにそれをなし得ていない現状があり、むしろ若かりし頃よりも物欲自体が減ってしまっている分、お金は欲しいけど何かを物質的に求めているわけではなく、借金を返済したいというのが1番な理由でお金を求めている。
これに面白みを見出すことがまだできていないし、これに縛られている閉塞感がしっくりこないというのを助長してしまっているのだと思う。

しかし、これからは親孝行も家族サービスもとことんやりたいと思えるようにもなった。
起業して10年近くになるが未だに安定しない。
ヒト、モノ、カネに振り回される日々。
その中で見出したものは、これからは対外的な視点を減らし個人的視点での物事の見極めや言動に重点を置くことの大切さ。
スピリチュアル界隈でいう風の時代を生きていく上で、シンプルさがキーワードだと思う。

会社で言えばスタッフ、取引先。
プライベートで言えば家庭や地域の繋がり。

こういったものはある程度大枠として捉えるだけに留める。
これがすごく大切だと気づいた。
今までは、これをそれぞれに深掘りして付き合い方を考え、言葉を選び、信用を得るため自己犠牲を払い、感情を抑え込み、堕落を許さず、常に先陣を切りながら他者の望む理想に違わぬようできる限りを尽くしてきた。

結果、40歳を迎えた今、ある種のもうどうでもいいや感が出てきている。
というか、もう疲れたのだと感じた。

それはそうだろうと妙に納得してしまう自分もいる。
何かを成し得た感覚もなく、ただ他者のために己を捨てて走ってきたこの年月は心に休息を与えるまもなく、ただただ機械のように目の前の日々をこなすだけの無機質な感情に埋もれてしまい喜びといったものも少なく、感動なんてとうに忘れてしまっていた中で、何に希望を見出せていたのだろうか。
前を向くという姿勢だけは崩れることはなかったが、それさえもどこに向かっているかもわからない状態だったことを考えるとパフォーマンスの一環だったかもしれないと。

逃げたいとは思わなかった。
逃げてはいけないと思っていたからだ。

今思えば麻痺していた。
本当に。
心だけは自分でコントロールしているつもりだったが全然そんなことはなく、逆に何かにコントロールされていた。
掌の上で転がされている感覚。

優しい人は傷つきやすいという。
優しい社長は失敗するという。
その通り。
失敗は再現性が高いとはよく言ったものだ。
頭ではわかっている。
あの時あの人たちを少しでも助けられた。救ってあげられたかもって。
自意識過剰で自己満足的な考えかもしれない。
でも、それが自分の信念だったし疑ってもいないピュアな部分だった。

度重なる衝突もあったが意義深いものとして捉えようとするものはなく、それ故にその言動は意味を成さず、理解もされず、それでも誰かの意見は正当性を持ち、それに賛同が集まる。すると客観性を必要とせず答えが強制的に一つになる。そうなるとその答えに逆らうことが出来なくなる。
優しさゆえに。

優しさとはなんと都合の良いものだろうか。
仕事だけではない。
家庭でも同じ。
相手を気遣うというのは表向きで、それをしないといけないというジレンマに苛まれたとき、変な優しさが発動する。
結果、先に動いた方が負けという変な感覚に陥り損をしたと思ってしまうわけだ。

個人的には期待なんて多分最初からしていないと思ってはいるが、他者に対してこうなって欲しいという願いはある。
これが期待と同義かはよくわからない。
でも、強いものはこちらのそれを知っているかのように上手く立ち回る。
相手を人間力で見ようとせず利用価値があるかどうか。それが判断基準となる。
それを基準に言葉を選び、態度を変え、自分に有利な状況を作る。
そうやってこちら側の願いを逆手に取られてしまうともう勝ち目はない雰囲気となる。
色々な対策を講じても根本的に優しさがあると全て突破される。
純粋な優しさは依存されやすいということなんだと思う。
これを何度も何度も繰り返していくと麻痺してくる。悪いことをしたつもりもないのに否定されると自分が悪いとさえ思えることもある。
そんなことを10年やってきた。
だから疲れたということに関しては異論はない。

もはやどう思われてもいいから自由になりたい。
解放されたいではなく、解放するが正しいかもしれない。
解放されたいだと結局何かに縛られている感じがするし解放してほしいも違う気がする。
自らがシンプルになりたいのであれば自らのごちゃごちゃした意思や思念を強制シャットダウンする。
そうすると『解放する』になる。
考えるのをやめるのではなく、考え方を変える。
もっというと考えないで感じたように動く。
これこそがシンプルの極意。
何から解放されたいとかももうどうでもいい。
とにかく解放するのである。

現実面を見ればそれをすることにより面倒くさいことが増えるとか常識的に難しいとかそういった懸念もあるだろうが、正直もう心的には離れているので客観的にしか捉えられない。
無責任というのであれば今はタイミングじゃないとだけいっておく。

勘違いしてほしくないのは、逃げるわけではなく疲れたから休むだけなのだ。
心の休みでさえ今までは自分を律して与えていなかった分、本来与えるべきだった休みはもう随分と溜まっているはずなのだから、それを消化するのは自分に対しての義務だと思う。
これが許されるとか許されないとかを誰かに決められる義理はないはずなので、それこそ自分勝手でいいだろう。
期限も期間も関係なく、自分が自分で納得いくまでとことん休んでやろうと思う。
それでまた元気になったらちゃんとやるさ。

ごちゃごちゃ考えるのはちゃんと休んでから。
それまではシンプルに生きる。





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