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マラッカ王国滅亡の半分は自滅(マレーシア近世史)

イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!今回のnoteは、古代マレー世界の歴史です。
noteのハンドルネームに「マレーシア」と入れているのに、これまで全然マレーシアの話をしてこなかったことに気づきました…。
ということで、これからは、しばらくマレーシア関連の記事を書いていきます。

今回は、マラッカ王国の滅亡とポルトガルによる植民地化についてです!
1511年に、マラッカ王国はポルトガルの侵攻によって植民地化されます。ポルトガルはヨーロッパの国の中で、一番最初にマレー世界に植民地化を行いましたが、 その影響力はマレー世界全体には及びませんでした。加えて、滅亡させられたマラッカ王国が可哀想かと言うと、まあまあ自滅なところがあります。今回はそんなマラッカ王国滅亡について見ていきます。

マラッカ王国って何だ?ということについては、以下のnoteで詳細に書いていますのでぜひ!

では、例によってこのnoteを読むメリットは以下です。

  • マラッカ王国が滅んだ理由がわかる

  • マレー世界が一枚岩ではなかったことがわかる

ポルトガルの動機

ヨーロッパでは、マレー世界で取れる香辛料が大人気になりました。どれくらい人気かと言うと、同じ重量の金と交換されていたレベルです。

加えて、1492年にイベリア半島絡みで二つの事件が起きます。一つ目がレコンキスタの達成です。レコンキスタとは、イスラム勢力に奪われたキリスト勢力の影響圏を奪回することを指します。実は、イベリア半島は8世紀頃からはイスラム勢力の支配下にありました。元々、西ゴート王国というゲルマン系キリスト教の王国があったのですが、イスラム教徒に一掃されてしまいました。それ以来、レコンキスタでキリスト勢力がついにイベリア半島を奪回したのです。


レコンキスタの略図

二つ目にアメリカ大陸の発見があります。背景には、オスマン帝国が中東を通る香辛料の交易ルートを独占していたことがあります。オスマン帝国を迂回するために海洋ルートを探した結果、アメリカ大陸を発見できたのです。この二つの事件は、ヨーロッパ勢力が世界に飛び出すやる気(レコンキスタ)と、技術(羅針盤・火薬・カルベル船)が両方とも揃ったことを示しています。

国内からイスラム教徒を追放したばかりのスペインは粗野な傲慢の極みにあった。しかもこの探検を実行するための手段が手近にあった。適切に用いれば、トルコ問題への解決策になり得る技術が、この頃には存在したのである。

ジョージ・フリードマン著「100年予測」


さて、世界に飛び出す意思と能力を得たイベリア半島は、世界進出を実際に開始します(大航海時代)。オスマン帝国を迂回して、マレー世界に至るルートを見つけるのです。スペインは西回りで西インド諸島(アメリカ)に到着します。そこで黄金を発見し、スペインは大金持ちになります。ポルトガルは東回りでインド・マレー世界に到着し、香辛料貿易を独占します。


大航海時代

マラッカ王国の滅亡とポルトガルの影響

マラッカ王国が、ポルトガルに負けて滅んでしまった原因はいくつか考えられます。内的要因と外的要因に分けて考えてみましょう。

まず内的要因としては、基本的には政治的な腐敗があり、それが民族的対立や他国の裏切りに繋がります。 政治的腐敗については、トゥン・ペラ王没後、有能な王族がいなくなってしまいました。王国を継いだトゥン・ムタヒル王は、政治より自分の富の浪費に耽ります。そして腐敗した王のもとには、腐敗した役人が集まるもので、役人たちはトゥン・ムタヒル王の治世を機会と捉えて、汚職をしまくりました。その負担は増税で庶民に押し付けたようです。

次に民族的対立です。トゥン・ムタヒル王はインド系でした。政治がこの有り様では、マレー系の庶民からは当然不満が高まります。

また、トゥン・ムタヒル王の治世の不安定さを目撃した商人や他国は、ポルトガルが来てもマラッカ王国の味方をしませんでした。例えば、中華系商人はポルトガルに巨額の財政的支援を行いました。タミル系商人は、マラッカ王国の防衛システムの情報をポルトガルに教えてしまったようです。

次に外的要因です。これはイメージ通りなんですが、ポルトガルの方が、マラッカ王国より優れた武器を持っていたこと。次に明帝国のマレー世界からの撤退が考えられます。マラッカ王国は単体でもそれなりに強かったのですが、当時の中華帝国だった明帝国とうまく連携を組んでいたところに、勢力拡大のヒントがあります。

少し明帝国の話をします。明帝国は宋以来の漢民族王朝です。永楽帝の時代に大遠征を行っています。 その大遠征において、明は他の国に朝貢を求めます。その建前は、中華帝国が一番優れた国であって、他の国は二等国・三等国とみなします。そして、全ての国が中国の支配下にあるということを確認するというのが朝貢貿易でした。これにはそれなりに意味があります。というのもこの朝貢を認めることによって、他国は、中華帝国から贈り物を得られるというところがあるからです。

朝貢の建前は名誉の話なのですが、経済的また安全保障的な利益が朝貢貿易にありました。それは中華帝国がこの世界のトップだということを認めることによって、中華帝国による保護を引き出すことが可能だったのです。それに明帝国は、1419年までに2000もの船を建造できるほどの海洋帝国でした。 マラッカ王国の王も明帝国の保護を引き出すために朝貢を喜んで行ったようです。

すごいのは、マラッカ王国はもともとタイのアユタヤ朝に朝貢していたのですが、明帝国の保護によって自信をつけたため、タイのアユタヤ朝への朝貢をやめて、戦争を引き起こしたことです。

この前提が崩れてしまったのが、ポルトガルがやってきた頃です。明帝国自体が、海に出れなくなったからです。北虜南倭といってモンゴル民族の侵攻や中国沿岸部で活躍していた中華系・朝鮮系・日系の混合した倭寇と呼ばれる海賊たちによる襲撃に悩まされていたので、自分たちの安全確保、治安維持で精一杯になってしまったので、明帝国は海禁政策を行いました。

マラッカ王国は、 明帝国の保護がなくなったため、自分で海軍増強を行いました。それでしばらくは影響力を保てていたのですが、そもそも、中華帝国の影響下のもと平等であるはずのマレー世界の国々に対して、マラッカ王国は侵攻を繰り返している。さらに、マラッカ王国は政治的に腐敗している。このマラッカ王国を何とかしたいと思っていた他国もいたはずです。明帝国がマレー世界に健在だったら、そこで政治的解決を図ることもできたはずですが、明帝国はマレー世界から撤退してしまったので、マラッカ王国を何とかやっつけるしかないという話にはなりそうです。ということで、他国の裏切りはマラッカ王国の傲慢さにも原因がありそうです。

ポルトガルのマレー世界への影響

文化的には、ポルトガルの語彙がマレー語にいくつか流入しました。また、マレーシアの文字は、ローマ字なのですが、これはイギリスの影響というよりはポルトガルのローマ字の導入が影響として大きいです。

政治面的には、貿易港としてのマラッカは若干影響力を落とします。イスラム商人はスマトラ島北部のアチェ王国に行くようになったからです。理由としては、マラッカが旧マラッカ国王によって度々襲撃されたこと。また、明帝国も貿易から撤退したこと。そもそも、ポルトガルがイスラム教徒を差別する政策を取ったということがあります。


ポルトガル領マラッカとアチェ王国

まとめ


マラッカ王国の滅亡は半分は自滅だと言えます。というのも、内的には政治的腐敗が他国からの信頼を失墜させたからです。 とはいっても最後の所で少し述べましたが、ポルトガルが来てもマラッカ王国以外のマレー世界の王国は繁栄を続けたと言えます。よく1492年からはヨーロッパの時代と言われていますが、実際にヨーロッパが世界を支配し始めるのは、 19世紀あたりからです。逆に言えば、それまでは中華帝国やイスラム世界の方が力が強いといえます。

だから、教科書的な流れだったら、ポルトガルが来た後はオランダの話に行くところなのですが、このnoteでは少し方向性を変えて、ポルトガルが来た後も、むしろポルトガルが来たからこそ、栄えることができたマレー世界の王国について、次回のnoteで見ていこうと思います。

ということで次回のnoteの主役はアチェ王国です。最後まで読んでいただきありがとうございました!


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