イスラム化がもたらしたマレー世界の繁栄(マレーシア中世史)
イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!今回のnoteは、古代マレー世界の歴史です。
noteのハンドルネームに「マレーシア」と入れているのに、これまで全然マレーシアの話をしてこなかったことに気づきました…。
ということで、これからは、しばらくマレーシア関連の記事を書いていきます。
今回は、マラッカ王国と中世マレー世界のイスラム化についてです!
では、例によってこのnoteを読むメリットは以下です。
イスラム教の聖地がメッカになった理由がわかる
マレー世界の繁栄の要因として、イスラム教の重要性がわかる
イスラム教と商業について
マレー世界のイスラム化の成功については様々な議論がありますが、 仏教と同様にイスラム教も貿易と結びついており、貿易の過程で広まったと考えられています。主にインドからのムスリム商人が、中世マレー世界で活躍したと見られています。
マレー世界という呼び方や、仏教と商業の結びつきについてはこちらのnoteで詳しく書いています。
また、イスラム教はそもそも商業都市で生まれたため、貿易と相性が良い宗教だと考えられます。 元々中東辺りは、中華帝国とローマ帝国の中継貿易で栄えていました。特に現在のシリアがある辺りです。しかし、シリアを通るルートは6世紀頃に使えなくなりました。理由は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシアの対立の激化です。 そこで、迂回ルートとして現在のメッカを通ることになります。
当然、メッカには東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と中華帝国両方から巨万の富が流れ込みます。
巨万の富が流れ込んでしまうと、人間は退廃してしまうものです。 それを防ぐための装置としてイスラム教が根付きました。つまり、ムハンマドがアッラーから預言を授かったということですが。 よって、イスラム教は「ちゃんと」商業するためのものであって、商業自体は否定してないと言えます。 むしろ、「イスラム教に従って商業をした方がいいんじゃないか」というふうに、商業相手にイスラム教を広めようとするのは自然なことだと考えられます。
マラッカ王国と中世マレー世界のイスラム化
マラッカ王国の経済的繁栄
このような背景をもとに、 マラッカ王国と中世マレー世界のイスラム化について見ていきましょう。マラッカ王国は中世マレー世界のイスラム化に最も貢献したとされる国家です。 元々、スマトラ島にあるパレンバンというところに、 パラメシュワラという王族が住んでいました。 パラメシュワラは、マジャパヒト王国の襲撃を受けてマレー半島西部に逃げます。そこでマラッカ王国を興しました。
マラッカ王国は貿易で繁栄しました。成功要因に以下のものが挙げられています。
1.貿易を行う上での道具(保存庫など)の整備
マラッカ王国は季節風貿易で栄えました。季節風貿易とは、約半年の周期で風向きが変わる季節風を利用した貿易です。
そのため、どうしても商品交換には日数を要します。貿易を行うタイミングが悪ければ、半年間帰れないということも起きます。そこで商品の保存ができることが大事になります。
2.商業に向いた法整備
マラッカ王国では商品の継続的な保護を大事にしていました。商業では、「自分が持っている商品が為政者の気分で奪われないかどうか」がとても大事です。 ところで、中華人民共和国が投資を呼び込めるようになり、 経済的発展を享受し始めたのもそういう側面があります。もちろん中国共産党は人治と言って、中華人民共和国の法の上の存在にある存在です。しかし、ビジネスを行う中華人民共和国は、ある程度法律による支配が確立されています。だから、投資が呼び込めます。
マラッカ王国では、 海洋法という借金や船長の義務について定めた法があり、商業しやすい法整備がされていました。
3.貿易されるものの珍しさ
マレー群島では香辛料が取れました。インドでは綿織物が取れました。また、マラッカ王国には中華商人も来ていたので中華文明の商品も交換されていました。つまり、各地域の珍しいものがマラッカ王国に集まっていたので、貿易が盛んになりました。
マラッカ王国とイスラム教
次に、マラッカ王国とイスラム教商業の関係についても見ていきましょう。 まずマラッカ王国にイスラム化をもたらした人達を見ていきます。 一つ目が中華帝国です。 元々、中華帝国とイスラム世界(中央アジアとペルシア)は貿易をしており、中華・イスラム教徒のコミュニティが出来ていました。 しかし、モンゴル帝国の進出もあって、12世紀には陸上の交易路が使えなくなりました。そこで中華・イスラム教徒のコミュニティは、海洋ルートに拠点を移すことにしました。
ちなみに、中華帝国内でもイスラム教徒の影響力は強まっていきます。マラッカ王国が栄えた時代の中華帝国は明帝国だったのですが、 その時の永楽帝という皇帝の時代に大遠征を行います。中華帝国から東南アジアや中央アジア・中東を通って、 アフリカ東岸部まで遠征したようです。その大遠征を行ったのが、イスラム教徒で宦官の鄭和という人です。
次にグジャラート(今のインド北部) の商人たちが、世界にイスラム化をもたらしました。 こちらもモンゴル帝国と交易路の変化が挙げられます。中世マレー世界の特産品といえば香辛料でした。中世マレー世界の香辛料は元々、「マレー世界→ペルシャ湾→シリア→地中海→ヨーロッパ」という交易路があったのですが、こちらがモンゴル帝国によって閉ざされます。そこで、「マレー世界→グジャラート(インド北部)→紅海→スエズ地峡→地中海→ヨーロッパ」という交易路に変わりました。
ここでポイントなのがグジャラートのイスラム商人こそが、このルートを通過することが可能だったということです。なぜならば、その時のエジプトの統治者がスエズ地峡の通過をイスラム教徒以外に認めなかったからです。
だから商人のネットワークがあり、 さらにスエズ地峡を通過することができるクジャラートのイスラム商人が大活躍しました。
マラッカ王国自体がイスラム化していくのは、第5代国王ムザッファル・シャーの時です。
この時代のマラッカ王国は領土を拡大傾向にあり、征服した地域にイスラム化を進めました。また、マラッカ王国自体がイスラム商人が多数訪れる貿易国だったので、貿易上のコミュニケーションを円滑に進めたり、イスラムの教義に魅了されて自らイスラム教に改宗した諸侯もいました。なので、マラッカ王国を中心にマレー世界のイスラム化が進んでいきました。
まとめ
このようにマラッカ王国の繁栄には地理・法・宗教的な理由があります。
まず地理的に、各帝国や文明の珍しいものが集まるため、中継貿易ができたという点。次に、マラッカ王国に貿易をしにくる商人たちにとって、 商業がしやすい環境を法律や道具の整備によって整えた点。最後にイスラム化されることによって、 イスラム商人が使っていた商業ネットワークに組み込まれることが可能になり、 モンゴル帝国が拡大した後も、 グローバルな貿易路に参加できたという点です。
しかし、マラッカ王国は16世紀にポルトガルによって侵略され、マレー世界におけるヨーロッパ諸国の力が強まっていきます。次回のnoteではその過程を見ていきます。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
ちなみにサムネはクアラルンプールのIsramic Arts Museumにて撮影したものです。
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