ヘーゲル『精神現象学』と国家論の接続


さてカントの次はヘーゲルです(いやほんとはフィヒテとかシュエリングとか挟まってはいますが…)

ヘーゲルの課題は実は哲学的急進主義と似ています。二重革命(フランス革命と産業革命)にどのように対処するかということです。

ただし、ヘーゲルは産業革命の中心で経済が発展しつつあるイギリスと思想の急進性とアンシャンレジームの反動から革命が起きたフランスとは違うところに住んでいました。それがプロイセンです。プロイセンは現在のドイツ北西部で近代化を象徴する英仏のムーブメントから地理的にも思想的にも一歩引いた位置です。

ヘーゲルは隣国で展開する二重革命という現実を踏まえ、近代社会の肯定的・否定的側面をいかに構造的に把握するか、それをいかにしてプロイセンの発展や世界史に位置づけるか、ということを自身の思想の課題にします。

その方法論として弁証法を提唱しました。

弁証法と『精神現象学』

ヘーゲルは「個人(主観)による真理(客体)の把握」という図式を退けます。

代わりに、すべての実体は主体かつ客体であるとします。私たちが客体(認識の対象)と思っているものは、そもそも私たちの認識によって成り立ちます。これは、カントの認識論と同じです。カントと違うのは、ヘーゲルは客体がそれ自体が主体となって私たちの認識に働きかけてくるからです。すべての実体は一定の形で認識(客体化)されたとしても、その認識と矛盾する側面を持ち合わせており、私たちの実体への認識の変容を迫ります。認識が変われば、その実体との付き合い方も変わるので、主体の客体への働きかけも変容します。

例えるなら、石Aと石Bは引っ付く事態が発生したとします。これによって「石と石は引っ付きあうという現象を起こす」と分かります。この現象自体が一定の認識なので客体です。引っ付きあう石は合理的な説明が出来ないので畏怖の対象となります。

ここに石Cを入れてみましょう。すると、Aには引っ付きますがBとは反発します。この場合、石と石が引っ付きあうという認識は否定され、磁力による説明が妥当性を得ます。磁力だと現代科学なのでここで話は終わりますが、石を人間に、引っ付きあうを惹かれ合うとしたらどうでしょうか?

人と人が惹かれ合ったり反発し合ったりする現象には、恐らく様々な矛盾が生じるでしょうし、その度に認識の更新が起こるでしょう。このような現象の相矛盾する側面による認識・行為の変容とそれによるさらなる現象の変化の運動をヘーゲルは弁証法を捉えました。

弁証法による「意識の経験の学」がヘーゲルの主著である『精神現象学』です。『精神現象学』において、ヘーゲルは弁証法を通して上記のような運動を可能にしている「絶対者」を意識の中で提示することを試みます。

「絶対者」とは、弁証法の説明の中で述べたような実体の相矛盾する側面と認識・行為の変容の運動を可能にしている原理です。

ヘーゲルによると、「絶対者」は世界を根底で支えており、主観と客観に分裂することで存在しているそうです。だから、弁証法によって「絶対者」を認識することができます。

『精神現象学』は「絶対者」の把握を目指して、以下のプロセスで考察していきます。

・意識:対象に対する意識

・自己意識:意識と自己自身の自己関係について

・理性:意識の主観性と客観性の統一

・精神:ギリシアの人倫→ローマの法制度→近世のルネサンス→フランス革命

・宗教:「絶対者」の表象(イメージ)

・絶対知:「絶対者」の概念把握

弁証法の運動や精神のところを見ればわかるように、ヘーゲルはある種の進歩史観を取っています。弁証法的発展によってどんどん歴史が良くなっていくという発想です。

そしてヘーゲルは最終的には理性国家プロイセンが歴史の最終地点だと考えました。今からこれについて論じます。

ヘーゲルの国家論

そのために、人間観→自由観→倫理観→家族と市民社会の止揚としての国家の導出という形で説明します。

ヘーゲルは人間を欲求において考えました。人間は欲求を満たしたいのだが物質的世界に生きているため、物質的・社会的制約に直面せざるを得ないというのがヘーゲルの人間観です。

その上で、人間の自由には主観的・客観的側面があるとします。

・主観的側面:自分で意図を認識していること。「これは私の意思だ」と言えること

・客観的側面:各人の意図が社会的に承認されているかどうか。そのために、アイデンティティ(職業や階層や身分)が重要

そこから倫理論として、意図的な危害と事故による危害を区別するために、その人のアイデンティティの特定が重要とされます。

例えば、電車の中で誰かを押し倒してしまった時、その人が高齢で急ブレーキで踏ん張りがきかない場合は許されるでしょう。その一方で、その人が健康でストレス発散に他人を押し倒した場合は許されないでしょう。

ただし、この判断を行うには意志疎通を図るために共通のアイデンティティが必要です。これが国家の導出に繋がります。

国家を導出するためにヘーゲルは家族から出発します。家族は愛の共同体であり、個人の利益が集団の利益によって減じられることが少なくありません。また家族は共同体の外部には敵対的です。

このような家族の閉鎖性に辟易した個人が形成するのが市民社会です。よって市民社会は、精神的・物質的に独立した個人を単位とします。市民社会は開放性はあるのですが、家族的な全体利益への奉仕という側面はありません。市民社会は、互いが互いを手段として扱う利己的な「欲求の体系」です。

家族と市民社会を統合するものとして国家が表出します。国家は外面国家と理性国家という二段階に分かれます。

・外面国家:私有財産と契約の保護によって、経済活動と納税によって社会への奉仕を担保する

・理性国家:上記のような制度がなくとも「私」と「公」の分裂が克服され、個人は自由な存在としてそのまま公共社会の一員となる。

理性国家において君主はカリスマを示す必要はなく、国家の意志を示す者であれば十分とされます。

カントに並んでヘーゲルも近代哲学の完成者とよく言われます。ただし、カントとの違いは、ヘーゲルは乗り越えの対象になりがちだということです。

その典型が19世紀だとマルクスであり、20世紀はアドルノやバタイユやコジェーブ=フクヤマを批判するハンティントン(「文明の衝突」の著者)でした。

私の研究対象である「力と交換様式」でもヘーゲルに対して言及があるので、今後も学習を深めていきます。

参考文献
Routledge companion to Social and Political Philosophy 2016 Routledge
峰島旭雄 1989 概説西洋哲学史 ミネルヴァ書房
一ノ瀬正樹 英米哲学史講義  2014筑摩書房

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