無題

どうして文字を打つ手が進まない?
前はあんなにスラスラと書けていたのに。

自分のこの場所ではなく、書くことが決まっているもう一つの場所では書けるのに。

—そうなんだ、書けるんだ。

どうやら文字が書けないということではなさそうだ。

わからない。
そう、わからない。

—何が。

自分が何を求めているのかわからない。
これでいいのかがわからない。

最近はあまり自分の声というものを聞けていないのだと思う。
どこか乖離感がある。

—楽しい?

うーん。
まあ、どうだろう。

—不安?

そうだね、不安。
何より、その不安に対してゆっくり向き合えていないことがそれを増幅させている気がする。

そんな中で、圧倒的に努力している人であったり、行動している人を目にすると、まあ、何というか、「それに対して自分は」ってなる。

—解決できそう?

正直、解決とかの前段階で止まっているかも。
「何やってんだよ。そんなことしてるのは時間の無駄で、どうやったら解決できるかという方向に頭を使った方がいい。」そんな声がどこかから鳴っている気がする。

そりゃそうなんだけどさ。
Feelingな自分はまず感情に飲み込まれる傾向にあって、でも他人から複製された先ほどのような観点によって、自分は感情すらも自由に感じることを自らに禁じているような状態なのかもしれない。

—なんか、めんどうくさそうですね。過度に人も目気にしてません?

そうかもしれないですね。ほんとうにめんどうくさい。

—他の人に共有したりは?

ノーですね。得意でないということと、幸福論の動画を見ていたら感情は伝染するので自分の不幸を伝えないのがいいという観点を目にしちゃって、少しためらってしまうようになったというか。まあ、これも相談しない言い訳としてしまっているだけかもしれませんが。

あとシンプルに誰にでも「ほいっ」て投げれるような温度感の話題でもないので。

—またそうやって壁を作るのですね。まあだからここに書いているのかは知りませんが。ともかく、ずっと渇きがあるんだ?

渇きですか。
ずっと見えない何かを求めている感覚はありますかね。
でもどこに進んでいるかもわからず、模索の試行に対して自分が全てを懸けられている感覚もあまりありません。

—それを解決するのではなく、持ち続けることで何らかの形にし続けるという選択もあると思います。昇華できそうですか?

文字ですか?でも良し悪しはおいておき多くの人が書けるじゃないですか。そう考えるとうーんって。正直手段が思い浮かびません。
というよりやるべきことを優先、というか「しか」やらない状態に近く、外に広げていくようなことが出来ていない。

—指令に忠実なロボットみたいですね。

鋭いですね。自分の中から出たはずの自己理念に対してさえも、特に昂揚も感じられない。内容的には言い当てているのに、です。

—逃げ出したい?

逃げ続けたら、まあ消去法みたいな形で何かに出会うという観点もありますし、でも「ないものねだり」で頑張れない人になるのではないかという恐怖も襲ってきます。板挟みです。

—だからこそ、どちらか又はその他の行動を取った時に初めて「何らかの結果」が得られて、次の選択へとつながるのだと思います。ただし、一回のトライで「教訓」みたいなキラキラしたものと結果が結びつくと期待してはいけませんよ。「形にならないモヤモヤ」みたいなものになる方が生きていると多いので。

はい。

—しばらく、運転できそうですか?

言うなれば、満ち足りるには不十分で、反旗を翻すには怒りが不十分。
幸せをエネルギーにすることも不幸せをエネルギーにすることも出来ていません。

—何よりも燃費が悪いですね。ある種新型。

仰る通りなのかもしれません。

—ゆっくり時間を取って、特に何も考えず、手を動かしたり、心を生き返らせるように、自分と対話するような過ごし方をしばらくすることをお勧めします。

ありがとうございました。

もしもサポートを頂けたなら、それはさらなる経験に使い、僕の視点からその経験を文章にして共有させていただきます!