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戦略コンサルタントに必要なことは、霞ヶ関の6年で学んだ

✔「いちばん忙しいところに行きたいです」

1995年春、大学を卒業した僕は通産省に入りました。

入省すると「どこに配属されたいですか?」と聞かれたので「いちばんエリートがいて、いちばんマクロで、いちばん忙しいところがいいです」と答えました。3年で辞めるつもりだった僕は、とにかく忙しいところがいいなあと思っていたんです。

配属されたのが、産業政策局の「産業資金課」。

産業の金融に関する仕事をするところでした。のちに大企業やベンチャーの資金調達をやることにもなるのですが、僕の望みどおり、そのとき省内でいちばん忙しいところに配属されました。

その課は当時「新規事業法」と「民活法」という大きな法律の改正作業を2本も抱えていました。10年ぶりに改正する法律です。25人くらいの課だったのですが、法律を2本も抱えるとなったらものすごく大変です。エース級のすごい人たちが大勢送りこまれており、僕はその課の末席でものすごく忙しい、というわけです。

通常、法律改正の仕事は10年に1回くらいしか回ってきません。回ってくることは名誉ではあるのですが、めちゃくちゃ忙しくなるというのが法律改正の仕事。そんな大変な法律改正が入省1年目で2本も予定されている状態でした。

僕は2年2ヶ月、その課にいることになったのですが、法律改正は、その間にさらに想定外に3本追加されて5本になりました。「こんな忙しいところあるのか?」というくらい忙しい状況でした。

✔「コピー」&「ロジ」地獄

僕の最初の仕事は「コピー」と「ロジ」ばかりでした。

自分のスケジュールもちゃんと把握できていないのに、課長のスケジュールとか総括補佐のスケジュールを全部知っておかないといけません。上司から聞かれたらすぐに「いまあの人はここに行ってます」とか「何時に戻ります」とパッと言えなければいけない。

資料は次から次へと目の前に積まれていって、資料が来た瞬間に「課の誰に関係するか?」ってことをパッとチェックします。返答期限のある資料も多かったので、すぐにコピーしてバッと配って、その時間までに回答を回収して、総務課に戻す。そんなことが延々続きました。

当時は法律の改正をやっていたので、特にものすごい量が来るわけです。1日に数十センチもの資料が来る。それ全部に瞬時に目を通さないといけない。ふつう無理なんです。でも、やらないといけない。

それ以外にも新聞を朝に全部チェックして、関係のあるところを全部切って、コピーしてみんなに配ったりもしてました。

✔限界まで膨らんだちゃんぽん

とにかく「ロジ」が大変でした。

地味に大変なのが「会議室の予約」です。システムで予約しないといけないのですが、その当時のシステムはまたよく止まるんです。とにかく寝不足だった僕は、10秒でもシステムが止まると、待っている間に眠気で自分が落ちてしまうのです。笑

いろんな声が飛んできます。「これやってくれ!」「走れ!」「空けてくれ!」 僕は「そんな同時にできるかいな」と思いながらもなんとかギリギリで対応していく。そんな毎日でした。

食事の手配も僕の仕事でした。

昼も夜も、みんなからの注文を全部聞いて頼まないといけません。ミスると怒られる。内心「もう自分で頼めよ!」と思っていました。自分の分も頼むのですが、やることが多すぎて昼のご飯が夜中の1時くらいまで食べられないんです。ちゃんぽんなんか、大変です。冷たくなったちゃんぽんが汁を吸って山のように膨らんでいるのです。(すごいな、このちゃんぽん。大丈夫か……)と思いながらすすっていました。

追いつかないのは、コピーです。

急ぎの優先的な資料からどんどんやっていくのですが、それでもどんどん追加されていく。それをずーっとやっていき、平均すると夜中の4時くらいにようやく処理できる。「やった、もう寝れる!」と思ったら朝8時。途端に電話がかかってきて「いますぐ来い」と言われる。「1分ぐらい寝させてよ……」みたいなそういう日もありました。

「三宅! 三宅!」と呼ばれ続ける毎日。「俺、三宅って名前やめたいわ」と謎の愚痴を言っていたと、後に同期に教えてもらいました。

✔何も身につかなくてヤバい

産業政策局で働き始めて1年。

僕は焦っていました。というのも、正直何にも身につかないからです。ロジをしたり、走ったり、コピーしたりしているだけ。とにかくやってくる仕事に追われているだけでした。

「これじゃいかんな」と思いました。「辞めようかな?」とも思いました。でも逆に「いまの仕事のペースを追い越して、自分がリードできるようにがんばったらどうなるんだろう? 1回だけやってみよう」と思ったんです。

2ヶ月間、仕事だけに集中してみよう。

そう思って2年目の4月と5月は、土日もずっと役所に泊まり込んで仕事をすることにしました。関係する資料は全部読み込んで、勉強もして、頭の中にいろいろ入れるようにしたのです。

すると、そこからやっぱり変わってきました。

みんなのやっていることが理解できるようになってきたのです。これまでわからずにやっていたことが「これは次こうなるな」と見えるようになった。自分のやりたいことも言えるようになりました。「これはこうじゃないですか?」とか「次こういうことが起こりそうなんでこうやっておきましょう」と少しずつ言えるようになってきた。

仕事に追われるのではなく、きちんと回せるようになってきたのです。

✔「ダメダメ」と言われ続けた僕が初めて褒められる

そうこうしているうちに、2年目の後半になると、中身のある仕事もさせてもらえるようになってきました。

たとえば「中小企業創造活動促進法」という法律に「エンジェル税制」を書きこむ仕事です。

税の法律を変えるには「大蔵省(今の財務省)主税局」と「内閣法制局」の二大巨頭を攻略する必要がありました。

税制の調整をするのは「主税局」。法律の調整をするのは「法制局」。どちらも、頭がよくて怖そうな人が集まっています。僕も必死で勉強したのですが、税はやっぱりものすごく難しい。法律ももちろん難しい。この両方を満たすような解を作っていくのは至難の業でした。

途中で「この法律改正は産業政策局ではなく、中小企業庁に移してやろう」ということになりました。それで「タコ部屋に行け」と言われたのです。産政局からは直属の上司と僕の2人が出向になり、中小企業庁のメンバーと一緒にタコ部屋に入りました。

そんななか初めて褒められる出来事があったのです。

先ほど「主税局」と「法制局」の二大巨頭を攻略する必要があると言いましたが、法律を作っていると主税局と法制局の主張がしょっちゅう対立し、そのたびに通産省が挟まれるのです。主税局を通過しても法制局が「ダメ」っと言ったら止まる。逆もしかり。

その日も通産省内で、主税局担当の上司と法制局担当の上司がいがみ合いになって「こんなんできるかい!」というくらいこじれていました。

揉めていたのは「ベンチャーの定義」についてでした。

主税局は「将来における成長発展をする企業」という文言を入れたい。でも法制局は「ベンチャーなんだから『将来における』なんかいらないだろ。『発展』だけでいいだろう」と言うわけです。

それでも主税局は「『将来における』を入れろ」と譲りません。「それを入れないとエンジェル税制を認めない」と言います。

僕といえば、それまでも法律の書き方でいろんなアイデアを出していました。でもずっと「それじゃダメ」「ダメダメ」と言われ続けていたのです。それでもアイデアを出し続け、だいたい余計なことを言ってしまい「もうお前しゃべるな」と怒られる始末でした。

そのときもつい、法制局でこう口を挟んでしまったのです。

「ベンチャーというのは『今』じゃなくて『将来』における発展を目指すものですよね。『今』は成長しなくても、『将来』発展する存在。だから、『将来における』は入れてもいいんじゃないでしょうか?」

すると法制局の参事官から「お、そういう説明ならいいぞ」と言われて、その文言が法律に入ることになりました。主税局がありえないぐらい喜ぶ文言がスパンと入った。

僕は一夜にしてヒーローになりました。

2ヶ月の法案作成が終わって産政局に戻ると「お前よくやった!」と、ものすごく褒められました。これはうれしかった。そこからは残りの政令・省令・通達の仕事をほぼ1人で任せてもらえるようになりました。

✔「APECを仕切れ」

入省3年目には、APECのエネルギー大臣会合という国際会議を仕切る仕事がありました。

APECエネルギー大臣会合は27の国や地域からエネルギーを担当する大臣が集まってきて3日間会議をします。事前会合と本番2日。あわせて3日です。その年は日本が主催(議長国)でした。

まずは会合の場所を押さえないといけないし、宿泊場所も押さえないといけない。資源エネルギー庁の国際資源課で係長になっていた僕は、それらの「ロジ」を全部設計して予算も全部作りなさいと言われたのです。

しかも主催国というのは、会合の最後にすべて英語で大臣の合意書のようなものを作らなければいけません。この作業をエネ庁全体でやるわけです。エネ庁は30、40ほど課があったのですが、それらすべての意向をまとめるのも僕の仕事でした。

もちろん各国の意向も反映させる必要があります。アメリカ、カナダ、オーストラリア……あとアジアの国々。中国、インドネシア、タイ……それらすべての国の意向も聞いて調整しないといけませんでした。

さすがに「ええっ、どうすんの?」と思いました。

たまたま前任者がすごくしっかりした人で「予算案は簡単に作っといたから」と言ってくれて、予算要求はなんとかなりました。ただそこからがもう本当に大変でした。しかも会合の場所は沖縄なので、遠隔で準備しないといけないのです。

✔「マニュアル作ったほうがいいぞ」

会合当日の「ロジ隊長」は僕がやることになりました。

本来は係長の上司にあたる人間(課長補佐)がやる仕事なのですが「俺は大臣をサポートするから、お前はロジ全体の隊長、本来は俺の仕事だが、お前がやれ」と言われたのです。

ロジ隊長は、すごいんです。

本番当日(数日)は、本省の人20〜30人が部下としてつき、さらに沖縄県の人や全国の通産局の人も借りて、100人ほどがいきなり僕の部下になることが決まりました。

「いやあもう、どうしたらいいんだ」と思っていると、上司が「とりあえずマニュアル作ったほうがいいぞ」と教えてくれました。この上司、実は大阪のAPECをまとめた人で、すごいデキる人でした。僕は100人を7つのチームに分け、それぞれのチームリーダーに「マニュアルを作ってください」と指示しました。

最初にみんなからあがってきたのは薄っぺらいマニュアルだったのですが、起こりうることを全部想像して分厚いマニュアルを作ってもらいました。

APECは大変ではあったのですが、このマニュアルがうまく機能して大成功に終わりました。

✔官僚ラスト2年は死んでもおかしくなかった

エネ庁の仕事にも慣れてきていたある日、上司から呼ばれました。そして「異動だ。おめでとう」と言われたのです。どこの課への異動だろうとドキドキしていたら「官房総務課だ」と言われて「えええ~!」となりました。

官房総務課というのはいちばんのエリートが行くところでした。

そこの課長は将来だいたい事務次官になります。そこの課長補佐は「法令審査委員」というポジションで、その人たちは省内のことをほぼ全部決められます。

この法令審査委員をさらに補佐する「法令審査委員補佐」というのが僕の任されたポジションでした。文字どおり「法律を審査する」役回り。法律はもちろん、省内の意思決定に大きな影響力のある、ものすごく重要なポジションです。

ただ僕は工学部出身で法律は専門ではありません。入省してからも法律の仕事はやっていましたが、これを機に法律を全部勉強しなおしました。民法、商法はすべて読んで条文ごと覚えて、資料をかき集めてきて全部読んで……そのときは本当に1時間くらいしか寝られませんでした。

入省して最初の2年間も大変でしたが、それ以上でした。官房総務課の最後の2年間は死んでもおかしくないほど仕事をしていました。

しかも僕のいた2年間に省庁改革があったのです。「通産省」を「経産省」に変える。それに伴って、各省庁の全ての主語や権限の書きかえが必要です。環境リサイクル元年でリサイクルや環境に関する法律も全部変えることになりました。石炭政策を全部廃止するというエポックメイキングの年でもあった。ベンチャーの第3次ブームが来て、ベンチャー関連の法律を書き変える仕事もありました。経済構造改革も地方分権もありました。

もう、とにかく目白押しでした。結局、2年で法律が200本出た。僕はおそらく60本か70本くらいは担当しました。寝る暇なんてありませんでした。ただ、それでも意外なことに、最初の2年間と違って自分的には楽しく仕事をしていた気がします。裁量があったり、貢献している実感がある方が精神的にはずっと良いのですね。

✔経産省を辞める

僕は当初から「入省して3年で辞める」と思っていました。官僚として3年も働けば世の中のことはだいたいわかるだろう、と思っていたのです。

ところが、3年目というとエネ庁の国際資源課にいたころで「まだちょっと世の中の仕組みがわかんないな」と思っていました。

ただそのあとの官房総務課での2年が終わるころ(6年目)になると、さすがに世の中の仕組みはもうほぼわかるわけです。国会がどう動いてるかとか、各省庁との関係とか。さすがに「もうわかった」と思いました。そして「もう、今出なきゃ」と思ったのです。

プライベートな事情もありました。

当時は東中野の民間住宅を自分で借りて、そこから通っていました。でも結婚して子どもが生まれたので「官舎でも行こうかな」と思ったのです。そのほうが安いし広くもなるかな、と。

そこで人事に応募すると「金沢八景の官舎を割り当てました」と言われました。「いや、無理じゃん! こんなの!」。当時の平均睡眠時間が1時間。しかし金沢八景から霞ヶ関までは1時間以上かかる。さすがに睡眠時間をマイナスにはできません。

僕は「そうか、これは辞めろってことだな。神さまが何か言ってるんだな」と運命を感じました。転職活動を始めることにしました。

僕はもともと、中小企業のコンサルをやりたいと思っていました。いろんな業界を見れるし、そこにある問題をポンポン解決していくような仕事は面白そうだな、と。なんでも首を突っ込んでいってしまう自分の性格にも合っているし、飽きなさそうです。

でもどうすればコンサルタントになれるかはわかっていませんでした。中小企業診断士の存在も知ってましたが、なんかイメージと違う。

本屋さんに行ってコンサルティングに関する本を探していると大前研一さんの『戦略参謀』が目に留まりました。「へえ、こんなことやってるのか。おもしろいな」と。そこで「よし、大前研一さんのいるマッキンゼーっていうの受けてみよう」と思ったのです。

✔ケース面接を通過できない

経産省に勤めながらの転職活動でした。

夜中の3時4時くらいに帰ることができた日に「眠いなあ。たまには寝たいなぁ」と思いながら、マッキンゼーのホームページを探して「募集」をクリックしました。エントリーは英語で大量に書く必要があったのですが、なんとか3日で書きあげて、ポチッと応募しました。

すると「面接に来てください」というメールが届きました。

面接ではこんなことを聞かれました。「あなたはコンビニの店長です。お店の売上を2倍にするにはどうしたらいいですか?」。「こんなの簡単だ」と思いました。ちょうど当時コンビニのゲームにハマっていて、土日ずっとやっていたのです。

僕はすぐに「はい!」と言って「酒を売ります」と答えました。

すると面接官は少し沈黙して「は? それで終わりですか?」と言います。僕は「はい。以上です」と言いました。

当時はまだお酒を売っているコンビニは多くありませんでした。でも免許をとって酒を売れば、2倍か3倍は売上が伸びます。僕は「酒だと3倍くらい売れちゃいますかね? ちょっと多すぎますかね?」と言ったのですが、面接官は「いやいや、そういうことではなくて……」と言います。

そこで「3倍じゃ足りないのか」と思って「あ、もう1個手があります。薬を売ってください」と言いました。「薬だと全部で4倍になります。それでどうですか?」と。

そしたら「そういうこと聞いてんじゃない」という顔をされました。面接時間はまだ30分くらい残ってるのに2分で終わった。それで落ちたのです。「あれ? おかしいな」と思いました。

✔「待て、答えなくていい」

そのあともいくつか戦略コンサル会社の面接を受けたのですが、似たような対応をしてしまい、落ちてしまいました。そんななかで、一社だけ違った対応をしてくれた会社がありました。

それがA.T.カーニーでした。

1次面接のマネージャーさんとものすごく盛り上がりました。夜9時から11時くらいまで話しこんだくらいです。

「三宅さん、僕はいいと思ってるんだけど、決まりでケースをやらないといけないんだよ。君、ケースがうまくいかないみたいなこと言ってたじゃない? だから僕、いまからケースを出すけど、すぐ答えなくていいからね」と言われたんです。

僕は何のことかよくわからず「はあ」と答えました。

課題は「アウディの売上を2倍にするにはどうしたらいいか?」でした。こりゃ簡単だと思って僕は「それはですね……」と答えようとしました。

すると面接官は手で制して「待て、答えなくていい」と言います。

そして「売上って何で構成されてる?」と言いながらホワイトボードに書き始めたのです。「これとこれだよね。これはどういう分岐になるかな? これは何がドライバー?」というぐあいに盤面いっぱいに「ロジックツリー」ができていきました。

「じゃあ三宅さん、売上を2倍にするためには何をしたらいいかな?」と聞かれて「これとこれをこうすればいいですね」と答えたんです。すると「そうなんだよ。こういうことを聞いてるんだよ、俺たちは」と言われて「はああ、そういうことかあ」と思いました。

面接は無事に通り、僕はA.T.カーニーに入社することになりました。

✔マネージャーに見捨てられ、放置される

今は「A.T.カーニー」という名前もわりと知られていますが、当時の知名度は低いものでした。「エーティー管理? 管理会社ですか?」と言われたこともありました。

入社は2001年、31歳の頃です。

僕は中小企業のコンサルがやりたいと思っていたのですが、A.T.カーニーは大企業の案件ばかりでした。そしてやっぱりそんなには面白くなかった。

しかもみんなごちゃごちゃうるさいわけです。直属の上司も細かい人でした。僕は「そんな分析、意味ないっすね」などと言ってしまい、最初の上司とはケンカみたいになっちゃいました。

「資料を作ってください」と言われたら、脊髄反射で20分くらいで作っていました。「1週間考えてくれ」と言われても10分で3枚くらいの資料作って、こんなもんでいいだろうと思っていた。恥ずかしい話です。

あるレジャーランドのプロジェクトに入れられました。

3ヶ月の常駐プロジェクトでした。マネージャーが1人、プリンシパル2人、オフィサー2人、僕のようなコンサルが3人。コンサル3人のうち、業務改革は僕1人で、あと2人はコスト削減担当でした。

僕のミッションはレジャーランドの業務改革。

レジャーランド内には30店舗くらいグッズやお菓子のショップがあるんですが、その業務改革をせよというものでした。

話を聞いてみると、経営側と現場側が真逆のことを言っていました。

経営者はこう言います。「店員が暇そうに見える。半分にできるんじゃないか?」。一方、現場の店長は「冗談じゃない。どの店舗も死にそうなぐらい大変だ。もっと人を増やしてくれ」と主張していました。

僕は「じゃあ、各お店の時間ごとの業務量と店員の数を全部分析してみましょう。そしたらズレが見えてくるはずです」と言いました。

しかし、レジャーランド側からは総スカン。「そんな難しい分析ができるか! 店舗によって業務はバラバラだし、来店客数だって毎日毎時間バラバラなんだぞ」と反対されました。

上司であるマネジャーからも「これだけ反発をくらったらムリだよ。別の切り口を考えよう」とストップがかけられました。挙げ句の果てに僕は、業務改革の担当を外されてしまったのです。

そのあとも解決策は見つからなくて課題自体がお蔵入りしかけていました。

✔場内をふらふら歩いて話を聞いた

バリバリ活躍するはずだったのに、ぜんぜん通用しませんでした。マネージャーにも見捨てられ放置される始末。みんな忙しそうにしてるのに僕だけが暇なのです。

あまりに暇でプロジェクトルームに居るのもつらい……。「ヤバいな、困ったな」と思っていました。

一方で、提案した案をあきらめてはいませんでした。納得がいかなかったのです。

僕は上司に内緒で最後の2週間、レジャーランドを歩き回ることにしました。毎日ふらふらと出かけていって「ある店舗の10時は、どんな客がどのくらいいるのか? そのときの店舗の配置はどうなっていて、どんな業務があるのか? その業務はどのくらい時間がかかるのか? どんなスペックでやっているのか?」といったことをつぶさにメモしながら回りました。

お店ごとに業務は違います。

淡々とレジ打ちと朝晩の品出しをするだけのお店もあれば、商品の回転が速くて陳列整理に時間をとられる店もある。試食用のお菓子を切ったり、お客さん対応が大変なお店もある。

近くでイベントがあるたびに、死に物狂いで働いているお店もあれば、朝はお客さんが少ないけど、夕方になるとレジに大行列ができて、てんやわんやしているお店もありました。

同じレジ打ちでも、たとえばあるお店は一顧客あたり平均5秒なのに対して、別のお店では平均2分だったりします。それは商品の特性や、包装などのオペレーション、商品数が違ったりするからです。しかも時間帯によって同じレジ打ちでもかかる時間は変わります。これはお客さんが買う商品の数や種類が変わるからです。

レジャーランド内には宿泊施設があって、そのまわりのお店は夜もずっと忙しい。週末と平日だと客層も違うので、人の動線も変わって忙しくなるお店が変わる、といったこともわかりました。

また、毎週水曜と木曜は修学旅行生を受け入れていました。修学旅行生がやってくる午後のある時間帯だけ、エントランス周辺やその先のエリアの客数・客層は大きく変わる。繁盛するお店や売れる商品も変わるので、オペレーションもものすごく変わることがわかったんです。

✔エクセルで定量化

時間を変えて、何回も同じところを歩いたりしながら、それぞれのお店の状況を見ていきました。そのうちプロジェクトルームにいるのに、各お店の様子が頭に浮かぶようにまでなりました。

「この時間だとあの店はこうなっているだろうな」とか「そろそろあの店が大変になってくるぞ」とか「明日は入場者が多いから、あのイベントがある17時以降は、あの店は大行列になるだろうなあ」とか。

僕はメモしてきた情報を「定量化」して、簡単なエクセルのツールを作りました。各店舗における「30分ごと✕業務内容」で必要な業務量を試算できるようにしたんです。すると必要な店員の数が割り出せるようになりました。

僕はさらにそれを進化させました。

曜日や天気、季節、イベントの構成、修学旅行生の受け入れ状況と「入場口ごと」「時間ごと」「だいたいの顧客セグメントごと」の来場者予測数を入力すれば、一瞬でその日のエリアそれぞれの時間ごとの顧客分布を予測できるようにしたのです。来場者予測数はすでにかなり高い精度でできるツールがあったのでそれを使いました。

エリアごとの顧客分布がわかれば、その時間におけるそれぞれのお店の来店客数が予測できます。それをお店ごとの業務量とつなげれば必要な店員の数が時間別で予測できるのです。

僕はこの予測業務量のデータを1年分作りました。そのうえでいまの店員数と比べてみた。するといろんなことが見えてきました。

✔「なんで今まで気づかなかったんだ!」

わかったことは以下の3つです。

1つ目は「エリアをまたがって店員の融通をすれば、殺人的な忙しさや寝そうになるほど暇な状態はなくなり、ほぼ平準化できる」ということ。

2つ目は「全エリアで平準化すれば、平日は3分の1の人数で回せる」ということ。平日は店員が過剰だったのです。土日祝日であっても、店員の数は半分でいいことがわかりました。

3つ目は「正月、大型連休、お盆、クリスマス、年に2回ある特別フェスティバルのときは、現状の3倍の人員が必要」ということ。このときは逆に、ぜんぜん店員が足りていませんでした。それはバイトを雇えば良いのです。丁度近くには大学も複数あり、GWの連休やお盆なら学生はお休みですし。

定量化したことで、こういったことが分かりました。だから経営者の直感も現場の感覚も、ある意味ではどっちも正解だったのです。

この結果を現場に見せてみると予想以上の反応でした。「なるほど! そのとおりだ!」と。現場のリーダーたちも店長たちも納得してくれて、社長も責任者も大喜びしてくれました。

結果的にそのレジャーランドは殺人的な忙しさがほとんどなくなり、休みも計画的に取れるようになりました。トータルの人件費のコストもかなり削減することができました。

✔官僚時代の知識とスキルが生きた

とにかく僕は「業務全体を定量化してやろう」と思っていました。

そしてそのためのヒアリングの技術も大切だったと思います。「何を聞けばいいのか?」「どうすれば数字に置き換えられるのか?」という部分です。

「この業務、大変ですか?」では、いい答えは聞けません。そうではなくて「1時間に何個くらいやるんですか?」と聞く。「5個くらいですかね」と返ってきたら「だいたいひとつ12分でできるんだな」とわかります。

あとは「徹底的に細かいところまで分析した上で俯瞰する」ということがすごく大切なんだなと思いました。

思い出したのは、官僚時代の最初の上司でした。

官僚の世界には「機構定員要求」というものがあります。ようするに組織を新しく作るときに「何人必要です」という要求をするわけですが、そのときは「産業資金課から新規産業課を作る」という要求でした。

上司は「三宅、最初が肝心なんだ。細かく業務を全部書きだして、何分✕何人っていうのを全部細かく出せ。数字にできないものは意味がないから」と言っていました。

上司は「全部ミクロにしろ」というのが口癖でした。「細かい部分まで把握して下から全部積み上げておけば、何を聞かれても答えられるようになる。上からやっていると矛盾ができたときに答えられないだろ。だから全部積み上げろ」と。

たしかにそうでした。エネ庁時代、APECの予算要求のときも財務省に何を聞かれても全部答えられました。絶対に詰まらなかった。持ち帰らなくても即答できたのです。

深く掘った上で俯瞰する。

官僚からコンサルタントになり、今に至るまで、このやり方は強力な僕の武器になっています。

34歳でドリームインキュベータに転職したあとは「ビジネスプロデュース」を進めていくことになります。

ビジネスプロデュースとは社会課題を解決するための大きな絵を描き、その実現に向けて「仲間づくり」と「政策連携」を駆使しながら、数千億円規模の事業を作り出すというもの。

この「ビジネスプロデュース」においても官僚時代のスキルと知識が大いに生きるのですが、その話をするとまた長くなるので次回以降のnoteで書きたいと思います。


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