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痛みでつながる、つながれる

「ガザ・モノローグ」朗読公演
2024年6月22日

イスラエルの暴力に対する悲鳴や慟哭だけではなく、昼夜問わず頭上に爆弾を降らすドローンよりも遥かに高く立ち昇る「声」が自分たちにはあると信じ、33人の子どもが書いた「モノローグ」。この日私が朗読した二つのモノローグは、2008年~2009年の大規模攻撃後に14才と15才の子が書いたものだった。https://www.gazamonologues.com/

わたしは子どもたちを全て帝王切開で産んだ。ガザでは医療物資も不足し、無麻酔で帝王切開が行われていることを新聞で読み、そのすさまじい痛みを想い絶句した。小さな子どもたちを日々世話する時、パレスチナの母や子を想うようになった。なってしまった。

夫の不貞発覚や別居・ワンオペ開始も間にあったが、10月7日後に初めて知ったパレスチナの耐え難い痛みを見て見ぬふりをして生き続けることが私にはできず、かといって一人で抱えることもできず、あふれる感情をぶちまけてしまいたい衝動も正直あった。だから朗読で表現するこの機会が本当にありがたかった。

仕事が終わればもれなくワンオペ家事育児だし、調停に向けた準備とかやることなら山のようにあったけれど、日々を回す役割の私とはまた別の私が、二つのモノローグに向かわせた。どうしたら二人のより良い媒体となれるのか、時間をひねり出し試行錯誤した二ヶ月間。子どもたちが寝静まった後、英語から日本語に訳す時、どうしたら心に届くのか考える時、不思議と日々の疲れは感じなかった。

昨年12月に自主上映したパレスチナの子どもを追ったドキュメンタリー映画『僕たちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』
今年2月に仕事でご一緒したパレスチナ子どものキャンペーンさんを通して知ったナワール児童館の子どもたち
https://ccp-ngo.jp/project/gaza-nawwar-center/

これまで出会った子どもたちを想いながら、そしてこれまでの学びも総動員しながらモノローグに向き合うとき、不謹慎かもしれないが、私は私が今生きている意義を感じた。

二人の子の言葉をすくうことで、私もまたすくわれ、
二人の子の言葉を私を通して再生することで、私の中にも生きる力が湧いた。

こんな機会を与えてくれた企画者のお二人はサイコーにかっこいい。出演者ごとに選書したという思いがけない本のプレゼントもサイコーすぎた。まじで「母性」なんか知るかよ。感じたことねーよ。私は私の行為や想いを「母性」という呪いの言葉に閉じ込められることを断固拒否する。ぶち破る。

『自分で名付ける』松田青子著 2021年

最後に、素晴らしい企画者と共演者4名からあたたかい優しさを浴びながら、付き合ってくれた子どもたちにもたくさんのありがとうを。

あなたたちのおかげで、カカは日常生活の向こうに広がる世界が、ようやく見えるようになりました。


(以下、私が翻訳・朗読したモノローグ。たくさんの人に届きますように)

ムハンマド・エル・アムラニ
1995年生まれ 15才
アル・シュザイヤー地区/アル・モンタール通り

ガザ、そのあたたかい抱擁と地獄の業火。恐怖、不安、死、破壊。
今回僕たちの地区は”無事”だった。占領軍はいつも僕たちを最初に攻撃するけど、どうやらこの地区に飽きがきて変化を求めたみたいだ。不幸中の幸いだった。

家から国境に向かって逃げる人、荷物を持ち息子や娘を連れて西へ行く人を、よく一日中椅子に座って眺めていた。子どもを肩に乗せている人もいれば、母親を背負っている人もいた…。ひとところにガザが全て押し込められるまで、どこへ逃げているのかは誰にもわからない。

境界が狭まり始め、モスクからも人が逃げ出し始めた。そして見る間に狭まり、ついに僕の家に到達した。「え?今度は僕たちの番?でもどこに行けばいいの?」父さんに聞いた。家に残る、と父さんはきっぱりと言い、こう続けた。「家を捨て去る者は、尊厳を失うんだ…」僕は自分に言い聞かせた。「動くな。お前が特別な訳でもあるまいし、なるようにしかならない」

一日中食べることに追われていた。従兄弟たちと一緒に、家から1キロくらい離れた配水管に水を汲みに行くこともあって、サブリに荷馬車を借りた。サブリとその兄弟は水を運ぶのをよく手伝ってくれた。道すがら、サブリは自分と馬の武勇伝とか、荒野を駆けて投石用のロープで鳥を仕留めた時の話をしてくれた。僕は投石用のロープを持ち歩いたことはない。恐ろしいから。恐怖はあったけど、サブリの話は楽しかった。道を歩く怖さを紛らわせるために、僕たちはよく話をした。

「不安な夜がやってきた」。昼が終わり夜になると僕たちは言った。眠ることなんてできなかった。15分だけ眠り、3時間起きていた。爆撃が目の前で起こっているのに、どうしたら眠れるっていうんだ。僕たちは運命を待ちながら、ベッドに横たわる。窓の端から夜空を見上げると、炎と煙で見渡す限り真っ赤に染まっていた。

そして自分に問いかけるんだ。
全世界は安らいでいるのに、どうして僕たちは地獄の業火の中で生きているのだろう?

リーム・アファナ
1996年生まれ 14才
アル・サフタウィ通り

小さいころは、自分が世界で一番幸せな子どもだと思ってた。でも、心と体が成長すればするほど、不安も大きくなっていく。だって小さいころにはわからなかったことをわかり始めたから。例えば、恵まれない子どもの意味、とか。

一番腹が立って泣けるほど悲しいのは、子どもたちの涙。国籍とか宗教とか肌の色とか関係ない。この世の全ての子どもたちの涙。
私は大人になったら小児科医になりたい。それが私の背中を力強く押してくれる希望。でもうんざりしてるし、退屈で、悲しい。だって、ガザにはもう命なんてないから…

昨日学校にいた時、戦闘機の音が聞こえた。すごく怖くなって学校から逃げ出したくなった。戦争のことを思い出して、もうすぐ死ぬんだと思った。戦争の記憶が私から消えることはきっとない。
戦争の三日目、家族で一緒に座って、今何が起こっているかを話していた。おばあちゃんは私たちが怖がらないようになだめてくれて、確かに気持ちは落ち着いた。ミサイルの音は止まなかったけれど、おばあちゃんの優しい声で私たちは安らいでいた。

電話が鳴った…戦争中は絶対つながらなかったのに…だから電話の音がうれしかった…
ーもしもし?
ーはい?
ーイスラエル国防軍です。家から立ち退くまであと5分あります。これはあなた方の利益のためです。我々は警告しました。

自分の足で立っていることなんてできなかった。家中のみんなが叫びだし、おばあちゃんが一番最初に逃げ出した。あんなに素早いおばあちゃんを見るのは初めてだった。父さんが私と妹を抱きしめて、怖がらなくていい、と言った。父さんは私の手を引いて家を出ようとしたけれど、クマのバラカが一緒じゃなきゃ生きていけない。爆撃の中にあの子を残して逃げるのは裏切りだと思った。父さんの腕をすり抜け、走り、バラカをかかえて家を出た。

家から遠く離れて5分経つのを待った。史上最高に長い5分だった…それが10分になり…何年もの時が過ぎたように感じた。
私は渦巻く風の中にいた。想いも夢も頭の中で転げまわり、世界が高速で回転していた。小児科医になる夢は、ずーっと、ずーっと遠くに感じた。バラカを抱きしめて、小さかった時のことを思い出していた。いつだって笑っていたあの時を。

子どものころに戻りたい。そして子どものままでいたい。大きくなんかなりたくない。

でも、たったひとつ、私をなぐさめてくれたもの。
それは私たち子どもを片時も一人にしなかった人たちの、愛だった。
ガザは愛に溢れてる。


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