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横断歩道での拷問。ここから「あって言って」攻撃が始まった。

 私は、小学校入学時に、場面緘黙を克服することはできなかった。
誰からの支援を受けることもなく、クラスメートと少しずつ喋れるような環境を作ってもらうこともなく、保育園のときと同じように、家族と先生の前でしか喋れなかった。
 今から約30年前、緘黙という言葉もなかった時代は、これが現実だった。
 同じ保育園から入学した顔見知りは少数で、他の保育園や幼稚園出身の子もいた。1学年に約100人いたから、初対面の子の方が多かった。人の数も校舎の大きさも、保育園よりはるかに大きな世界に身を置くことになった。

「サイン、右よし」

 入学早々、壁にぶつかった。
 集団下校のときだ。入学して間もない頃は、クラスに関係なく、同じ地域に住んだり通学路が同じだったりする児童が一緒に帰る集団下校をしていた。このとき、交通安全の名目で、声を出すよう求められたのだ。

 横断歩道に差し掛かると、まず右手を挙げて「サイン」と声を上げるよう‟教育”された。右を見て車が来ていなければ「右よし」、左を見て「左よし」、また右を見て「右よし」と言い、右手を挙げたままようやく渡り始める。真ん中に来ると、左を見て「左よし」と言い、残り半分を渡りきるのだ。

 拷問だった。
 何が「よし」だ。何もよくない。
 横断歩道で手を挙げるのは、ドライバーへの“サイン”だとしても、何のために、誰のために声を出させるのか。「右よし」「左よし」なんてわざわざ言う必要なんてない。車が来ていないことくらい、見れば分かることだ。こんな横断歩道の渡り方を考えた奴は死ねばいい。
 と、今なら言える。

 下校時には先生はいない。児童だけになる。だから私一人だけこの声出しができなかった。
 小学生にもなると、疑問に思う子も出てきた。「何で喋らないの?」と聞いてくる。
「・・・」。
 答えられない。何で喋れないのか自分でも分からない。そもそも理由が分かったところで、緘黙だから答えられない。
 疑問は、要求に変わった。「『あ』って言ってみて」と。
 小学1年生は、国語の授業で平仮名から習う。五十音順の最初が「あ」であることは、今も昔も緘黙児を苦しめている。不思議と、みんな「あ」を求めてくる。

 毎日の下校が嫌になった。
 下校前に、1年生全員が集まって整列をしたり、先生が人数を数えたりするのだが、その間に私はいつも心の中で神様仏様にお願いをしていた。「サインのときに誰からも何も言われませんように」と。毎日毎日、「神様仏様…」とお祈りをした。
 次第に、横断歩道まで来たタイミングで、ちょうど車が来てくれることを期待するようになった。たいていのドライバーは、小学生がいれば止まってくれて、(行っていいよ)と手で合図をしてくれる。そんなときは「サイン、右よし」なんて時間のかかることをごちゃごちゃやらずに、小走りで横断歩道を早く渡ってあげた方が、ドライバーを待たせなくて済むからだ。何より、声を出さなくてよい大義名分にもなる。
 ところが、先生から言われたことを忠実に守る融通のきかないバカは、車が待っていようが、いつ何時も「サイン、右よし」をやるのだ。さっさと横断歩道を渡った私に、何でやらないの?と聞いてくる。車を待たせないためと説明することもできず、毎度のことながら何も言えないまま無視しているようになった。

 つらかった。
 苦しかった。
 喋れないことそのものよりも、「何で喋らないの?」と聞かれることが嫌だった。どうせ何を聞いても答えないのだから、せめて放っておいてほしかった。
 私はこの気持ちを、誰かに打ち明けることはなかった。親にも学校の先生にも相談しなかった。小さな体と心で、懸命に耐えてきた。私には、小学1年の時点で、信頼できる大人なんていなかった。
 もし今だったら、不登校になれただろうか。30年前は、不登校なんて概念はなかったから、学校に行くしかなかった。たとえ、喋れなくても。たとえ、寄り添ってくれる人がいなくても。
 そして、無意識ながらも感じていた。できる人から、できない人に対して、「何でできないの?」と聞くことが、どれほど残酷なことかを。

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