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小学校入学は、脱緘黙の最大のチャンスだった

保育園入学時に緘黙を発症した私は、保育士から喋らなければ倉庫に閉じ込めると脅され、無理やり喋らされた。その虐待の結果、“先生”とだけは喋るようになった。これが、緘黙の固定化につながったと思っている。

35年前。緘黙なんていう言葉もなかった時代だ。
親も、そのうち友達とも喋るようになるだろうくらいに軽く考えていたのかもしれない。実際、入園時には全く喋れなかった(らしい)私が、年長のときの発表会(お遊戯会のようなもの)では、ステージ上で園児一人一人が将来の夢を発表する場面で、堂々と自分の夢を語ることができた。この時の記憶はある。当時の私の夢は、電車の運転手だった。一見すると、成長しているように見えただろう。

だけど、これも先生が見ているからやったことだ。先生の前では、喋らなければ暗闇に閉じ込められるという恐怖がインプットされていたため、怒られないような行動をしただけだ。友達とは依然として喋れないことを、保育士は知っていたはずだ。だけど、このことを怒られた記憶はない。なぜなら、私が友達と喋らなくても、保育士が困るわけではないから。
誰にも寄り添ってもらえず、何の診断も支援も受けることなく、”先生”以外とは喋れないまま、私は全ての始まりとなった保育園を卒園した。

普通ではないのに普通級に

就学すると、環境は大きく変わった。
ひと学年100人規模の学校で、当然ながら他の保育園や幼稚園から来た子が大勢いるため、同じクラスには私が喋らないことを知らない子ばかりだった。
緘黙を脱するには、この環境の変化が最大のチャンスだった。そしてそれは、年齢が低ければ低いほど、緘黙の期間が短ければ短いほど、後遺症が少なくて済む。

私には、それができなかった。
小学校に上がったら話せるようになろうという強い意思を持てるほど、6歳の私は成長していなかった。保育園では、みんなと仲良く遊べていたし、喋らないことを友達から責められたことはなかった。だから、必要に駆られなかったのかもしれない。
今振り返れば、そこに大人の助けがほしかった。喋らないことを否定するのではなく、責めるのではなく、虐待保育士のように脅して強要するのでもなく、自然と話せるようになる環境を作ってほしかった。言葉で自分の意思を伝えることの大切さやコミュニケーションの楽しさ・喜びを、この年齢の頃から体験させてほしかった。

しかし実際には、個別支援を受けることもなく、放任されたまま普通級で過ごした。普通ではない私は、徐々に周りからも、喋らないことに疑問をもたれるようになり、苦しい立場に置かれるようになった。年齢を重ねれば重ねるほどに。

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