極真の黒帯取得までの道のり
極真空手黒帯を取得する難しさ
極真空手の黒帯を取れる確率は、昔は1000人に1人と言われていた時期もあります。現在は100人に1人と言われています。これは道場数の増加にも関係あると思いますが、昔の稽古の方が厳しかったということもあると思います。
例えば、基本稽古にしてもそれぞれ20本ずつが当たり前で、私も基本稽古だけで死にそうになった記憶があります。現在は10本ずつです。
また、組手もほぼ全力で打ち合うようなガチンコでしたが、現在は力を抜いてやるスパーリングという形になっています。ただし、それでもヒートアップしてしまうこともあります。実際に、私がまだ青帯(7級)だった時、黄色帯(5級)の先輩から後ろ蹴りをみぞおちにもらい、もがき苦しんだことがありました。その後も別の茶帯(1級)から後ろ回し蹴りで顎を蹴られ、前歯を1本折られ差し歯になりました。
そんな洗礼を受けると多くの人はやめていきます。
私も例に漏れず、暫くは道場から足が遠のいていた時期がありました。
一念発起
当時私がいた道場は、チャンピオン製造工場とも謳われた極真会館城西支部配下の分支部道場でした。城西支部には、故黒澤浩樹先輩、増田章先輩、そして小笠原和彦先輩といった全日本で優勝、準優勝するような選手で溢れかえっていました。
私が所属していた道場にはそこまでの先輩はいませんでしたが、たびたび増田章先輩の道場には足を運んでいました。
そんな中で私が稽古に行かない日々が1ヶ月半くらい過ぎ去った頃、道場のみんなが一生懸命稽古している夢を見て、とても嫌な気分で起床したのを覚えています。
この時私は大学生になったばかりで、厳しい稽古に行かずに普通に緩く遊べる環境だったのと裏腹に、私の心は後ろめたさと情けなさで苛まれるようになっていきました。
私の心の中にはもともと、「将来、英語教員を目指すのだから心身共に強くなる必要がある。そのためには極真空手の黒帯は取るべきだ」という気持ちがあったのでした。
そういうこともあって、「どうすべきかよく考えてみるべきだ」と思い、数日考えた結果、「やっぱり黒帯目指してもう一度頑張ってみよう!」と決心がつきました。
それからは私には強い決心が備わっていたので、先輩からの蹴りも怖くなくなり、逆に先輩の側頭部に上段回し蹴りを決めたり、同輩の拳を骨折させるくらいに予想以上に強くなっていき、全日本出場者を選抜する城西支部選抜交流試合で軽量級の準々決勝まで駒を進めることが出来ました。この時はすでに茶帯(1級)でこの試合の結果によって黒帯になるための審査会を受診させていただき、黒帯をめでたく拝領することが出来たのです。
そしてこの時、「人間は強い決心さえ出来れば夢は叶うものなんだなぁ」、としみじみ思ったのでした。
次回は「騙された黒帯」についてお話したいと思います!