見出し画像

12 恐怖

 一年ばかり前の新聞に今日出海が「恐怖は文明の所産であって、戦場に恐怖はない」と云う事を書いていたが、私の体験から考えるとどうも怪しいもんだ。

以前に書いた事があるが、比島の戦場で爆撃機の編隊から何十という爆弾が自分の方に向かって落ちてくる時の気持ちは、何とも表現できない怖さだった。ちょっと見ただけで後は恐怖のあまり二度と見上げる勇気がなく、地面に伏せてザーという音を聞いていた。今思うと爆弾の落ち具合いをよく見ておくんだった。
惜しい事をした。
又戦闘機の急降下爆撃に狙われた時も、キーンといった感じの急降下音に続いて、投下された爆弾の空気を切る振動がビュッと肌をさす様な爆撃、続いてドカーンと爆発するまでの身の縮む様な思いは、やはり恐怖と云うべきだろう。それからもうもうと土煙が立ち土塊が降ってくる時は、ホッとした気持ちだった。

 しかし彼が云っているのはこんな状態の事かな、と思い当たる節もある。それは混戦の最中に体験した。だが恐怖を感じなかったのは決して心が動転していたからではない。むしろ極めて冷静である。死と隣り合わせになった時、人間は開き直ってしまうのかも知れないと思っている。

 山中の戦場で米軍は見通しの良い峰づたいに、日本軍は谷の茂みに隠れて行動していたので、互いに入り乱れてしまった。
私が陣地を捨てて逃走した夜、兵団本部を避けて通るために小高い山を越した時の事である。白くボーと光る夜光虫が一杯ついた木を握りながら急な斜面を登りつめた時、頂上が少し平らな草原になっていた。私は先頭にいたのだが、茂みを出た時ハッと立ち止まった。前方の茂みの前に人影が見えるのだ。1秒、2秒、3秒、人影はサッと茂みの中へ消えた。
こちらは大勢いるし撃てばいい様なものだが、負け戦の心理では滅多に銃は撃てない。銃声が自分の存在を敵に知らせるから危険この上ない。それに米兵は皆、20連発か30連発の自動小銃を持っているから、一発ずつ弾丸を入れる38式歩兵銃の日本兵が10人位では、米兵がその気になればひとたまりもないだろう。
私はマニラにいた時、随分ピストルの練習をして自分の腕前をよく知っていた。
いかにダメかをである。幸い米兵は逃げてくれた。部下も同じ思いだったらしい。お互いに顔を合わせて「あれは米軍の歩哨じゃないか」と云い合ってる内にも、後から何も知らぬ連中がゾロゾロ登って来るし、妙にその時の事をよく憶えている。
後の連中を制止しながら慌てて左手へ向って茂みを分けながら山を降りた。

 それから本通り、といっても原始林の中に日本軍の逃走の為に自然に出来た様な道だが、敗残兵の群と共に山奥へ進んでいた。そのうち幾つ目かの谷で大勢の日本兵がたむろしている所へ来た。
事情を聞くとこの前の山がアンガット川に突出していて、山は険しく、どうしても川淵の露出した峰を超えないと進めない所があるらしい。そこに人影が見えると対岸の米軍が機関銃を撃って来るので怖くて行けない。既に何人もやられたと云う事だった。

 しかし私は思案していても仕方のない事だし、部下をうながして進む事にした。雨季だったので泥んこの草の生えた坂を這いながら進んで行った。
この辺の記憶が今も実にはっきりしているのだ。いよいよ一番危険な峰に到着した時、私は『今米軍が機関銃を発射したら自分は死ぬんだな、しかし死とは何と簡単な事だろう。まるで隣へちょっと遊びにでもいく様なものではないか』とこんな考えが頭の中を駆けめぐって、死に直面した時の気持ちをじっと噛みしめた。
ほんの瞬間私の動きが止まったようだ。後から部下が「隊長殿、早く」と声を殺して云ったので私は這い続けた。幸運にも私の小隊が通り切るまで、米軍は気付かなかった。今考えると丁度米軍が寝た後だったのかもしれない。大体米軍は激戦中も夜は戦闘をしなかった。夜戦は火力の劣った方がやる事だ。しかしそれからも対岸から見える所を歩きながら、ここも危ないのと違うかなと考えていた。ニッパの生えた湿地だった。それから山へ入って相当歩いた所で、疲れたし全員を集めて一休みした。

 ここで実に不思議な事が起こった。すぐ下の川へ飲み水を汲みに行った2人か3人の部下が何時迄待っても帰って来ないのである。とうとう夜が明け始めた。やっと彼等が帰って来て「ずーっと探し廻っていたのだ」と云った。こんなのをキツネにつままれたと云うのだろうか。

山中略図


 この後、以前書いた河原で寝ていて砲撃を受ける場面へ続くのである。その時は疲労の余り、恐怖を感じなかった。
(第13号 昭和五十五年・1980年 七月十八日発行)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?