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8 終戦 〜山中での最後の日々、そして投降へ〜

 戦争体験を書いているうちに、色々の出来事を思い出し、あれもこれもと記録に残したい事が出てくるが、敗軍の将、兵を語らずとか云うから、この辺で一応終戦にしよう。

 かつて川島兵団の本部があったイポーダム迄はマニラから山腹を縫って立派な舗装道路が通じていたが、それから奥は人跡未踏の密林に覆われた山岳だった。米軍の猛攻を受けて敗走する日本軍は、一路東へ向かう者と、アンガット河に沿って北東に逃げる者と二手に分かれた。私は初め前者を選んだが、どう云う理由か思い出せないが、途中から一日がかりの強行軍で後者へ移動した。6月にもなるとあらゆる川の岸辺や僅かな平坦地で、日本兵の死体や白骨で足の踏み場もない光景を至る所で見た。そしてあの混雑を極めた山中も1人か2、3人、精々4、5名位のグループを所々に見掛けるだけで静まりかえっていた。

 ところが今考えても不思議なのだが、分裂したり消えてしまった部隊が多い中で私の小隊だけが10数名を擁し、私が隊長として一応部隊の形を留めていた。そして相当傲慢に振舞っていた様だ。
 例えば或る時、中佐の階級章をつけた年配の人品卑しからぬ紳士とちょっとしたトラブルがあった。その時、私の部下の板谷と云うタクシーの運転手をしていた一等兵が怒鳴り始めた。すると彼は身の危険を感じたのか、サッとひざまずいて、由緒ありそうな軍刀を差し出し「これを差し上げますからどうかご容赦願いたい」と云った場面をはっきりと憶えている。正に弱肉強食の無法地帯だ。
 私自身も初めは部下を放ったらかしで、唯何となく皆がついて来ていた様に思うのだが、徐々に隊長の権威を取り戻した。と云うより。何となくそうなったと云う事の様だ。例えば私が飯に異物が入っているのに小言を云ったら、私の飯盒の米だけ少しづつ蓋に入れて丁寧に選別していた部下の姿を思い出し、今は冷や汗の出る思いだ。当時22才、5月に23才になったばかりで、別に統率力の秀れている訳でもない私が、撃沈された船の生き残りを集めた、まとまりのない部隊を率いて何故こんな事を為し得たか、信じられないかも知れないが、どう考えても事実だ。
唯、理由がない訳でもない。皆が右往左往して体力を消耗させている時、私はあまり奥へ逃げずにジッと時期を待っていた。そして2、3週間で日本軍の大部分が死んでしまって、米軍がダムの所に小部隊を残して引き揚げた時、素早く、夜間に元の日本軍陣地へ忍び込んで食糧を取って来てはケチらずに喰って体力を取り戻し、これが又食糧の収集に役立った。

 それから、当時私の持っていた情報と戦争への見通しを一度書きたいと思っているのだが、とにかく皆が不安と絶望の中にいる時、私は終戦の近い事を信じて悠然としていた。
戦場の心理は当初と相当違って、例えばマニラで快活だったのに急に黙り込んでしまった者を憶えている。そして誰しも何か頼りになるものを求めるのではないかと思ったりする。
その頃、米軍機が投降勧告のビラとハワイで印刷された「落下傘ニュース」と云う新聞を時々撒いてくれた。それによって殆どの戦況や、もちろん故郷の空襲の日も知った。あの落下傘ニュースは実に有難かった。一つはニュース源として、も一つはトイレットペーパーとしてである。

 その頃、私の隊はアンガット河の切り立った20m程の崖の上に小屋を作り、重畳たる山波の向こうにマニラ原野とその彼方にパターン半島の山々を眺めながら、当時の日本人としては恐らく最高に平和な日々を楽しんでいた。
小屋から裏へ下りると巾が5m程の、底の小石まで透き通って見える清流があった。私は毎日何回も素裸で水浴して汗を落とし、何とも爽快な思いだった。米軍機はビラやニュースは撒いてくれたが、我々の様な戦う意志のない者を絶対攻撃しなかった。この事も全く事実である。

 確か8月16日だったと思うのだが米軍機が『戦争は終わった』と云う見出しで、早く山を下りて日本の再建に尽くそうとか、米軍は諸君を人道的に取扱うとか云った内容のビラを撒いて行った。それを見て皆、とび上がって喜んだ。田端という軍曹が「あゝ愉快!建国以来負けた事がない日本が遂に負けた、あゝ愉快!」と何回も繰り返し叫びながらとび廻ったのが印象的だった。
それからは毎日米軍機が前方のマニラ平野の上空を北へ北へと飛び続けた。夜も標識灯を点けた飛行機が北へ飛んでいた。しかしかえってどうして良いか判らぬまま、食糧も何とかあり、別に生活に困るわけでもなかったし、何となく日が過ぎて行った。

 8月の終わり頃になって、日本の高級将校が終戦の打合せにマニラに来ている写真などの載った詳しい大型の新聞が撒かれた。
ところで以前からこのアンガット河のずっと上流に河島兵団長が居る事は聞いていたが、何の連絡もなかった。ところが突然、使いが私の所へ来て、軍使を出したいが病人が多くて人が足りないから5名程出して欲しいと云う依頼があった。そこで確か先方から5名、私の隊から5名で指揮官は向こうから出し、私の隊の加藤という上等兵が大きい白旗を竿に付けて持ち出発した。
 翌日だったと思うが彼等は米軍のレーションと云う携帯食糧(コンビーフや野菜サラダの缶詰、ビスケットや乾果物、インスタントコーヒーからタバコまでをパックにして一食分で、朝昼夕の三種類あった)を背負えるだけ背負ってフーフー云いながら帰って来た。そして9月3日にダムの所で投降する取り決めをしていた。
全員一応兵団長に報告してからと云う事で、奥へ行ってしまった。当然あのレーションは半分は私の隊の物と思っていた。ところが部下が帰って来たときは、全く申し訳程度しか貰って来なかった。あの時の口惜しさ!皆激怒した。
その上兵団長から、投降前日の9月2日にダムから二尺程手前の谷に集結する様連絡して廻って欲しいと依頼があった。怒りながらも手分けして走り廻った。
もう一つの道すじへは岩佐と云う警官だった30年配の上等兵が行ってくれた。確か一晩かかって帰って来た。

 9月の2日、私が最後の水浴を楽しんで上がって来ると部下が、今兵団長の一団が通って行った事、私の部下が怒っているのに「敬礼せんか!」と兵団長自ら怒鳴った事、それでも無視していると「この小隊はたるんどる!」と云い捨てて行った事を知らされた。今思うと私が居なくて良かったと思う。もし居たら一悶着あったかも知れない。それから間もなく私の隊も出発した。
 ところが予定地へ着く頃から私はマラリヤの発熱が始まった。高熱で一時はうわ言を云い出したので心配したと、翌朝部下から聞かされた。皆が夜通し火を焚いて騒いでいた記憶があるが、もしかしたら私が目を覚ました時だけだったのかも知れない。100人も居たのかどうか、とにかく最後の夜は何か火を焚いて騒いでいるな、と思った事しか記憶にない。

附記
私の所属していた河島兵団の記事が富士書苑から昭和28年8月に発行された『大東亜戦史』比島編の142頁に出ているのでその一部を抜粋しよう。尚、同書は今年8月に再販が出された事を新聞広告で知った。

(第8号 昭和五十三年・1978年 十二月二十日発行)

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