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10 戦争は終わった

 あのニュービリビッドの刑務所を出た時の記憶がない。調書によってだと思うが、私を含め十数名の将校が選び出されて集まった様な気がする。それから一人の米兵に連れられて田舎道をぞろぞろ歩いていた辺りから憶えている。
左側に米軍のキャンプがあり、右は確か畑で農家が点在していた。しばらく行くと右手の方に鉄条網で囲まれたキャンプが見えてきた。その入り口の詰所で一行が各テントに振り分けられた。テントは15、6あり、私に割り当てられたテントが、前に私が創刊号に書いた偽病院船で俘虜になった部隊の将校達だったのである。そして此処のキャンプの連中が、終戦前に比島で俘虜になった日本軍の将校の総てであり(将官は別だった)、我々の一行が終戦後投降した将校の最初の一団であった。それにしても生きて虜囚の辱めを受けず、と云って戦いながら、将校だけでこれだけの俘虜がいるのには少々驚いた。

 テントの中は中央に通路があり、両側10個ずつ位の折りたたみ式のベッドが並んでいた。中へ入ると右側の中程に私の為にベッドが用意してあった。私はベッドに入ると1週間余りの間、昼といわず夜といわず眠り続けた。余程疲労がたまっていたのだろう。自分でも何故こんなに眠れるのだろうと思いながら眠り続けた。
その間部屋の連中が食事を取りに行ったり、サンダルを作ってくれたり、喉が乾いたと云えば直ぐ水を持って来てくれたり、何とも親切に身の廻りの世話をしてくれた。彼等には俘虜という負い目があったからかも知れないが、あれだけの親切を受けた事は未だに忘れられない。

 それにしても、あのニュービリビッドの刑務所で働いていた日本兵俘虜の傲慢な態度と、何故こんなにも違うのだろう。色々考えたが、推論はこうだ。兵隊は軍隊社会で常に虐げられて来た存在であった。虐げられた者が、ひとたび権力を持つと、かつて自分を虐げた真の敵を見ずに、同じく虐げられて来た仲間を虐げる。こんなパターンは他にもある様な気がするがどうだろうか。

 ところで話は元に戻るが、私が毎日眠り続けていた間、雨季には珍しく晴天が続いていた。フト目を覚ました時、鉄条網越しに一面続く畑の中にバナナやパパイヤに囲まれて点在するのどかな農家を眺めながら、あの激しい戦争を自分は生き残ったのだな・・・・とぼんやり考えていた。

 思えば私の若い頃は絶えず戦争であった。小学生の頃、満州事変に出征する兵士を、学校から引率されて日の丸の小旗を振りながら線路ぎわへよく見送りに行った。その頃は戦場は怖いだろうなあ、と恐怖を感じた。又中学時代は支那事変で、その頃は防衛上、深夜に出征する事が多かったので、市内在住の私はしばしば夜中に見送りの為、駆り出された。そして自分が兵役の頃には戦争は終わっているだろうと無理に安心していた。
 ところが自分が兵役を迎えた時、太平洋戦争が始まっていた。やがて戦場へ行く頃にはもう見送りの者さえなく、私は熊谷の飛行場からひっそりと比島へ飛び立った。この頃にはもう死ぬ覚悟は出来ていた。激流に流されるゴミの様に自分自身を感じた記憶がある。

 一方こんな戦争で死んでたまるものか、何としても生き抜いてやろうと云う気を絶えず持っていた。この戦争はアジアを支配しようとする侵略戦争であり、いい目をするのは誰かと云う事を漠然と感じていた。だから馬鹿馬鹿しいと云う気が何時もあった。そして最後は全滅に近い河島兵団、1万5千名の中で九死に一生どころか百死に一生を得た。今、この将校キャンプで永い死との対決がやっと終わったのである。

 断片的な記憶が色々あるがその一つ。イポの山中を逃走中のある日、私は飢えと疲労の為にクタクタになって道端で横たわり、ウトウトしていた。その時目の前の木が、切って芋の様に食べられたらなぁ、とか、あの竹の中に羊羹が詰まっているのかも知れない・・・なんて妄想に取りつかれ「馬鹿なっ!」と心の中で叫んだ事がある。大部分の者はこんな様にして横たわったら二度と起き上がらなかった。ちょっと平坦な所があれば、こんな状態の日本兵が足の踏み場もないくらい、横たわっていた。虚ろな目をした者、動かない者、毎日何十、何百と見ながら生きて来た。あの時自分が、どうして元気を取り戻したのか不思議だが、今となっては思い出す術もない。大きな木がたくさん茂った、じめじめした所だった。

 この様にして、あまりにも多くの死を見ながら生活し、又自分自身もしばしば死に直面した体験からだろうか。人間の死に対してあまり感慨を覚えない自分にふと気付くことがある。不埒な事かも知れないが、どうも畏敬の念が乏しい様だ。しかしこれは何も他人に対してだけではない。“人生は一炊の夢”こんな意識が心にひそんでいるのを感じることがある。

その中で少しでも幸せに、又少しでも長く生きようとして、もがいているのが人間だと思っている。

(第10号 昭和五十四年・1979年 七月二十日発行)

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