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11 戦争と一人のやくざ

 いつか暴力団がその関係の新聞に「我々は任侠の道に生きるやくざであって暴力団ではない」とか書いているという報道を読んだ事があるが、暴力団とやくざ、何か一味違ったところがある様だ。

 「隊長殿、皆腹を空かして弱ってるん、判っとるんですか。も少し考えてやったらどうですかね。」作業の休憩時に私の前に座り込んで、その男は話しかけて来た。鋭い目付きで、ドスの利いた声だった。
昭和20年の2月か3月、場所はマニラ東方、イポ山中。前に書いたが、私の部隊はマニラ近辺で撃沈された船の生き残りを寄せ集めて作った、軍隊社会では本隊を持たない孤児の様な存在であった。だからマニラ航空廠が北部ルソンへ脱出する時、イポの河島兵団に預けられた。そこでは兵団本部の近くに住んで、色々雑用に使われた。食糧その他、何の支給もなしに。(註、兵団とは師団の事)

 戦況が悪化して秩序が乱れて来ると、その男の存在が目立つ様になったて来た。マニラにいた時は、私は技術関係で彼は警備兵だったので知らなかったが、山に入って彼がやくざである事を知らされた。40年配の赤黒い独特の人相で、何時も怒鳴りつける様なものの云い方をしていた。彼は一等兵だったが、下士官でも彼には一目置いている様子だった。私も彼に対して、イヤな奴という感じと一種の怖れを抱いていた。

 陸軍士官学校出身の隊長がモンタルバンへ行ってしまって私が小隊長になるとまもなく、彼が話しかけてきたのが冒頭の言葉である。私はいよいよ来たな、と身構えた。しかし彼は一向意に介さず、その頃から暇があると私に付きそって何かと話しかけて来る様になった。部下の動向や戦況の推移について、彼なりの判断で私に助言をして来た。

 しかし彼の判断は所詮、彼なりのものだった。例えば、その頃米軍機がよくビラを撒いた。日本兵の捕虜が作業をしたり余興を楽しんでいる写真を入れ、無駄な戦いをやめて山を降りて来る様に、米軍は諸君を人道的に温かく迎えるだろう、といった内容だった。
そのビラについて彼は「うまい事云うて、殺すんに決まっとる。人をだまそうなんてけしからん。そうでしょうが」といつも憤慨して私に同意を求めた。私は戦時国際法を少し習ったし、俘虜の取扱いに関する規約はよく知っていた。又米軍はそれを守るだろう事も知っていた。
しかしどうも彼に説明する気にならず、いつも言葉をにごしていた。彼の様にヤルかヤラれるかの激しい社会で生きて来た人間には、敵を迎えて養うなど、想像も出来ない様に思われたからである。

 或る日谷の茂みで休んでいた時、米軍機の機銃掃射がその谷に向かって始まった。その時も彼は私の側にいたが、逃げ出す者を見て「ジタバタさらすな!」と怒鳴って平然としていた。
私はそれまでの経験から先ず当たるまいという気があった割合平気でいられた。ドドドドッとものすごい地響きを立てながら銃弾が通って行く。その後から薬莢がカサカサと落ちて来た。その時の気持ちはやはり逃げるのは格好が悪いという意識が第一だった様に思う。

やがて米軍機が去った後、その少し前に我々の横を通り過ぎた二人の兵士がいたが、彼らが少し行った小川の所で二人共被弾して戦死しているという情報が入った。かつて中国大陸の戦場で、初年兵はよく弾に当たるが歴戦の兵士は滅多に負傷もしないと聞いた。しかし近代の物量戦では生死を分けるのは全く運不運の問題の様だ。彼がどんな気持ちでいたか知る由もないが、とにかく命知らずの男だった。

 米軍は夜間は休むが、朝から日暮れまで砲撃が続き、午前と午後には日課の様に空襲があった。戦闘機の編隊がやって来ると一発ずつ爆弾を抱いていて、次々と急降下爆撃をし、それから弾丸が無くなる迄機銃掃射をくり返して帰って行った。山に入った初めは高射砲も加わって応戦していたが、2週間も経たないうちにパッタリ止んで敵機の去るのを壕内で待つだけになった。
その中で1ヵ所だけ例外があった。ダダダダっと激しい攻撃が始まると必ず、ポンポンポンと間の抜けた様な反撃が始まるのである。ところがそれが又よく敵機を撃墜するという話だった。そして何人かの操縦士が兵団本部へ連れて来られたから間違いない。彼等はピストルや携帯食料の他に釣り針まで身につけていた。
私は一度だけグラマンが火を噴きながら全速力で平野へ向かっているのを見た。だが平野へ着く手前でパッとパラシュートが開いて操縦士が脱出した。すると、年配の方はご存知だろうが、双発双胴のロッキードが現れてパラシュートの廻りをゆっくり旋回し始めた。パラシュートが茂みの中に隠れるまで超低空でいつまでも飛び続けていた。私はその時、米軍の温かい友情に強く心を打たれた記憶が残っている。

 ところで彼がその反撃の陣地を見に行こうとしきりに誘うので出掛けたことがある。どの辺だったか全く憶えていないのだが、露出した土地に直径10メートル程で高さ1メートル余りの土手を作り、その真ん中に土を盛って一丁の高射機関銃か砲かが据えてあった。横で射る手が数名休んでいた。
しかしよくあの激しい攻撃の中を、確か4月まで続いたと思うが、露出した陣地で反撃し続けたものだ。彼にとって、その勇猛さは一種の憧れだったのかも知れない。とにかく二人で長い間その陣地を眺めていた。しかしその時の会話は全然記憶にない。

 戦局が益々悪化して、米軍機が絶えず上空に姿を現し、イギリス空軍のマークをつけた飛行機が姿を見せた時には、何とも嫌な気がした。
 その頃ある日の昼頃に兵団本部から、前線の某部隊に伝令を出して欲しいという依頼が来た。山腹を縫って走る舗装道路が一本あるだけで遮蔽物は何一つなかった。昼間この道を通るのは死を覚悟しなければ出来ない事だ。私は誰に命じたものかと一瞬困惑したが、すぐに彼が「自分が行きましょう」と云った。
しかし今思うと、何故本部の中から伝令を出さずにわざわざ私の所へ依頼が来たのか解らない。やはり自分の部下に命ずるのが辛かったのかと思う。使いの者と一緒に彼は気軽に出て行ったが、仲々帰って来なかった。日が暮れて心配していると、大分経ってからひょっこり帰って来て「よう来てくれた云うて、えらい喜んでもてなしてくれた。土産にこれくれた」と云ってウヰスキー瓶を一本差し出した。

 周りの山に米軍の姿が現れだすと、歩哨は立てていたが彼は勝手に敵状を偵察して廻って、状況を報告してくれた。まるでこの隊を守るのが自分の責任と思っている様な態度だった。ある時近くを移動していた部隊が米軍から銃撃を受けて、背負っていた食糧をほり出して逃げたのを見つけて、その梱包を次々と私の陣地へ運び込んで来た。それは餅の様なせんべいで、後に逃走中随分助かった。空腹で足が動かなくなると一枚食べて、一時間ほど歩く事が出来た。

だがそれから間もなく彼は偵察中に砲弾が至近距離に落ちて戦死した。誠に彼らしい最後であった。

 彼はその40年程の生涯に一度も正業につくことなく、社会に何の役にも立たなかったのかもしれない。しかし死の直前の何ヶ月かの間の彼の行為はどれほど役立ったかは別として、その心情において誠に敬服すべきものであった。
思うに原始社会においては集団を外敵から守る為に、彼の様な人間が必要だったに違いない。しかし現在の様な秩序の中では、無用の存在なのだろう。

(第12号 昭和五十五年・1980年 三月二十日発行)

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