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9 懐中時計 〜米軍の刑務所にて〜

 何時迄も戦争の話で恐縮だが、他に書く事もないので続けさせて頂く。
昭和20年9月3日、いよいよ投降の日だがその朝の記憶がない。とにかく、昨夜の発熱で私は足がふらついて速く歩けなかったので、私の隊だけが取り残されて歩いていた辺りから覚えている。他の連中の姿は全く見えないし、私には部下の気が急いているのが痛い程わかっていた。やがて峰に出た時、目の前にダムが見えたので、部下に先に行って、後から一人来る事を伝える様に言った。皆喜んで、たちまち姿が見えなくなった。

 私はしばらく休んでいたが、どんより曇った日だった。それからゆっくり歩いて谷へ下り、小川に沿ってしばらく歩いて又休んだ。その時かすかに人の声が耳に入ったので『米兵が迎えに来たな』と直感した。さてどんな態度で接しようかと思う間もなく、前方にサッと数人の米兵の姿が現れた。私は無意識に立ち上がって「オフィサー」と叫んでホールドアップしていた。「ハロー」と言わずに敬語を使ってしまった所に、その時の私の心理状態が現れているようだ。
彼等は近づいてきて、陽気に何やらペラペラ話しかけてきたが、さっぱり解らないので戸惑った。マニラに居た時、比島人とは英語で別に不自由なく話していたのでそのつもりでいたのだが、本当の米人の話は早口というか訛りがあるのか、どうもよく判らなかった。しかし彼等は実に鷹揚で、別に私のポケットや雑のうを調べるでもなく、両側から腕をかしてくれて歩き出した。その間に色々話をした内容は少し憶えているから、何とか話は通じたようだ。

 しばらくたって腕をかしてくれていた米兵が、私の胸のポケットの懐中時計を見つけて手に取り、記念にくれないかと言った。私が「ノー」と云うと彼は直ぐに元へ戻してくれた。支流に差し掛かると私を抱き上げて渡してくれた。やがてダムの横の広場に着いた時には、他の連中は皆出発した後だった。そして白い車体に赤十字のマークをつけた病院車が一台ポツンと私を待っていた。

 車の中は、左側が担架を置いた二段ベッドで、右側は長椅子になっていた。私は長椅子の前の方へ腰掛けた。すると運転席の米兵が助手席に置いていた自動小銃をサッと取って反対側へ置いたので、その時、久し振りに戦争を実感した。しばらくして詰所らしいテントから連絡兵が来て何か話すと、車は出発した。
 7ヶ月前、自ら運転して登って来た道を降りるのだから感無量だったと思うのだが、その辺りが又記憶にない。マニラの街へ入って、何の為か車が止まった時、群衆が口々に「ドロボー・バカヤロー」と叫びながら車に向かって走り寄って来た。一番前の男が助手席の窓から覗き込んで「ツモロー・パタイ(タガログ語で死ぬの意)」と云って手で首をはねる真似をしたが、その顔が今も印象に残っている。その時、運転手の米兵が彼等に怒鳴って手まねで追い払ってくれた。

 次に前方に高い鉄格子の扉を見た記憶がある。地図でたどってみるとニュービリビッドの刑務所のようだ。次の記憶は廊下の様な所で、何人かのボロをまとった土色のやせた顔をした敗残兵の中にいる自分だ。

 米兵の服を着た元気そうな日本人が何かと指図をしていた。私は初め彼等の正体を計りかねたが、すぐに彼等は終戦前の日本兵捕虜だと知らされた。彼等の指図で30名程が一室へ導かれた。部屋の両側へ並ばされたが、そこには一人宛に信玄袋が置かれ、中には米兵と同じでしかも新品の衣服や食器や日用品が一通り入っていた。ただ衣服は前後にペンキで大きくPW(prisoner of war の略)と書かれていた。部屋の奥にちょっと仕切りがあって、シャワーが並んでいた。
案内の日本人が、貴重品を中の通路に置いて、シャワーを浴びて服を着替える様に指示した。貴重品を監視してくれるものと思って、私は例の懐中時計を出して皆と一緒にシャワーをしていた。ふと見ると2、3人の日本人がニヤニヤ笑いながら貴重品の中から目ぼしい物をポケットに入れている姿を見た。こうして、あの親切な米兵が返してくれた時計は、皆が戦っている時、降伏した裏切り者の日本人捕虜の手に渡ってしまったのである。それに雑嚢にはビラを一通り記念に持っていたのだが、この時ゴミと一緒に持ち去られてしまった。

 さて、此処で簡単な調書と顔写真、指紋を取る為に2、3日滞在したが、その間米兵は日本人捕虜の従業員に比べ、はるかに親切で丁重で、その差は歴然としていた。中でもはっきり記憶に残っているのは、炊事係に丸々と太った色白の日本人がいたが、彼は山を降りたばかりの半病人の日本兵に向かって、並び方が悪いとか、食器の洗い方がどうのと絶えず怒鳴り散らしていた。ある時、腹に据えかねた新しい捕虜の一人が「貴様はそれでも日本人か!」とやった。するとその白豚が「俺は米軍の命令で動いているのだ!文句あるか!」と怒鳴り返して詰め寄ってきた。もう誰も、これ以上彼に逆らうだけの気力も体力も持たなかった。

 なお、例の懐中時計は亡くなった部下の遺品で、私が彼の遺族の住所を知っているだけに残念で仕方がない。復員後、遺族の方から手紙をもらったが、時計の事は書けなかった。
(第9号 昭和五十四年・1979年 三月二十日発行)

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