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映画『ザ・マスター』

(2023年9月3日やや涼しくなった日曜日の午後に鑑賞)

ポール・トーマス・アンダーソン
通称PTA監督による作品
『ザ・マスター』を鑑賞した。

PTA作品を観ると
眠くなる。
もしかしたら
アルファ波が出てしまうのかもしれない。

わたしが好きなPTA作品は以下である。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』
『パンチドランク・ラブ』
『インヒアレント・ヴァイス』

これらについても
いずれまた鑑賞して
noteに感想を記したいと思う。

さて
映画好きからの評価が
総じて高いPTA作品である。
わたしにとっても
PTA印は安心できる要素ではある。
ただし
眠くなるだけのPTA作品もある。
以下は個人的に
「眠くなるだけのPTA作品」だ。

『ブギーナイツ』
『マグノリア』
そして『ザ・マスター』もどちらかと言えば
眠くなるだけの作品だった。

以下『ザ・マスター』に対するわたしの感想を
列挙してゆく。

・おっぱいがいっぱいでサイコーな映画
・「おま○こ」連呼で欲望に忠実サイコー
・キューブリックのような均整のとれた画がサイコー
・女性たちのやさしさが指の隙間からこぼれ落ちてゆくように儚くてサイコー
・男たちがいつまでも子どものままなのPTA作品に共通してるヨウソ―(要素)

ちなみに
この作品の概要として語られている
「宗教と家族」というテーマについては
あまり重要ではないと
わたしは感じた。

それよりも印象的なのは
中盤あたりの
主人公による白昼夢のような場面だ。

そこにいる女性たちが
裸になって歌ったり踊ったり喜んでいる。
まったくの女性だけである。

そしてわたしは
この場面が
この映画におけるクライマックスであると
勝手に解釈している。

『インヒアレント・ヴァイス』でも
主人公の白昼夢はあった。
あちらにはとくにおっぱいはない。
それでも共通しているのは
女性のやさしさを感じる場面であるということかもしれない。

わたしは女性の身体が好きで
それがそこにあるだけで
神様に感謝したくなる気持ちになってしまうのだが
PTA作品には
この「女神像」のようなものがよく見受けられる。
『ザ・マスター』では
主人公が女神像を盗み出そうとする場面まである。

とにかくPTA作品における女性は
救いであり
指の隙間からこぼれ落ちるほど儚いものであり
やさしさと励ましを与えてくれる神様のような存在として
描かれているように
わたしは感じる。

そればかりか
PTA作品はどれも
(その印象に反して)
暴力的な描写は少なく
静かで
崩壊やタヒすらも
どこか白昼夢のような浮遊感をともなって
描かれているように
感じてしまう。

わたしにとって
『ザ・マスター』は
それほど好きな映画ではないけれど
女性との出会いを振り返ってみたいときに
また観ることができたらいいなと
感じる作品だ。

遅かれ早かれ
人は孤独になってゆくのだろう。
その前にできるだけ性交をして
後悔を先に残さないようにする。

「性交と成功」
「後悔と航海」は
ダジャレのような並びに見えてしまう。
しかしそれらは
この物語におけるもっとも重要な「体験」を
表している言葉なのかもしれないと
わたしは考える。

主人公にとっての後悔は
性交しなかった相手との
白昼夢のように描かれている。

この白昼夢を描くために
宗教や家族をモチーフにしていると言っても
過言ではないと
わたしは感じた。

わたしは
あの中盤の裸の女性たちの場面で
キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』を思い出していた。

『ザ・マスター』には
目を閉じて過去を知る場面がある。
そこでは
女性が「わたしは鎧を着た男性だった」と告白していた。

もう一度
『ザ・マスター』を観る機会があるとすれば
序盤から中盤までの場面を
よく観察したいと思う。

『時計じかけのオレンジ』よりも肉厚な
騎乗位を観るときは
まばたきをしてはならない。
失敗したら
もう一度やり直し。

余談だけど
以前に感想を書いた映画『インサイド・マン』でも
女性たちの裸の場面があった。
だけどそちらにはとくに浮遊感などはない。
さまざまな年齢の女性の裸が並んでいるという共通点はあるものの
『ザ・マスター』とは雰囲気の異なる場面になっている。

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