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華金プリンセス

「お疲れ様でぇ〜す!!!!!」
時計の針が17時を指したその瞬間、私は脇目も振らず鞄に荷物を詰め込む。
コートを掴み、華金ワールドへ飛び出す。
そう、今日は金曜日。土日休みのビジネスマンたちが最も愛している夜なのだ。

近所のスーパーヘ急ぐ。家飲みで一番重要なポイントは、最小のコストで、自分の食べたいもの、飲みたいものを心ゆくまで堪能するために食材をしっかり選ぶこと。ここのスーパーの惣菜はクオリティが高い。
ん…?3割引……!?それも炭火焼き鳥。ねぎま、つくね、軟骨……最高だ。迷わずカゴへ入れる。
それに鯖。塩を振り、酢でしめようか。そうすることで鯖の脂が緩和され、あっという間にさっぱり系のおつまみへと変身するのだ。
698円だが。まぁ焼き鳥で得をしている分、ここは目をつぶる。
できるだけ長く缶を冷やしておくために、お酒をカゴへ入れるのは1番最後だ。ビールの6缶パックを手にし、レジへ。会計を済ませて、家までの道を急ぐ。
たった1Kの狭い小さなマンションの部屋で、私は1人暮らしている。
大人が体育座りをするのがやっとな広さの玄関にパンプスを脱ぎ捨て、レジ袋を床に置きストッキングを脱いだ。汗ばみ、熱の篭った足の裏に、ひんやりと冷たい床の感触。あ〜…気持ちいい。
ジャケットをひらり、椅子にかけると乾き切ったコンタクトを外すべく洗面台へゆく。
鏡の前に立つとそこには疲れた顔の女が映っていた。私だ。目の下にうっすらとクマを浮かべて、血色のない乾燥した唇はきゅっと真一文字に結ばれている。
はぁ、とため息をこぼしながら髪をひとつに結い上げ部屋に戻った。

さぁ、待ちに待った晩酌の時間だ。
割引シールの貼られたパックと魚をガサゴソと取りだし、
ぷしゅ。缶ビールを開ける。ゴクッゴクッゴクッ、と一気に喉に流し込む。疲れた体に、アルコールが駆け巡った。
脳天からほぐれていくような快感に、思わず目を細めた。美味しい。
ろくに皿も出さず、割り箸を口にくわえ、脱ぎ捨てられたストッキングもそのまま。
読みながら寝てしまったのか、ページの折れたファッション誌はベットの下に伏せていて、飲みかけのペットボトルがいくつも放置され、そこで静かに息をしているようだった。
どうしようもなく、だらしがない。
半分裸のような格好で歩き回り、フライパンで焼いた食材をそのままそこから取って食べても誰にも怒られないこの暮らしの虜に、私はなっていた。

朝、目覚ましの音で起きたらピンクのカーテンを開けて、棚の上にはテディベアや観葉植物が飾られている、清潔で明るい陽の匂いがする生活に、憧れないわけじゃない。わざわざエプロンをつけて自分のためだけにご飯を作ったり、週末にはお菓子を焼くとか。そこに大好きな人でもいれば、きっと素敵なのだろう。
でも今の私は、華金プリンセスなのだ。この幸せを、今の生活を、誰にも邪魔させてたまるものか。
毎日毎日朝起きて、お化粧して、来る日も来る日も仕事して、ただうちへ帰る。疲れきってメイクも落とさず寝てしまうこともある。本当はやりたいことも行きたい場所も、結婚願望だってある、30の普通の女なのだ。
でもそれはいつもどこか遠い、知らない街の風景みたいで、美しいけれどピンとこない。知らない人の家族写真を見ているかのような気持ちになる。
はっきり言って向かないのだ。そんなことを漠然と考えながら、酒を進めた。

明日起きたら、洗濯機を回そう。なんだっけいつの頃か気に入っていた、花の香りがする柔軟剤をまた買ってみようか。
モーニングに行って、誰かが焼いてくれるトーストを食べ、美味しいコーヒーを飲みたい。
暮らしの豊かさとは、自分の生活に愛着を抱くことである。ここで人生が過ぎることを楽しみ、愛する精神そのものなのだ。
いつか誰かと一緒に生活することを選んでも、この街の空気や、匂いや、そして風景を、忘れることはないだろう。それは、私の1部だから。
幸せ。幸福感に包まれながら、私はベッドにもたれかかり意識を預けると、そっと眼を閉じた。
私の呼吸に合わせるように、深い闇がおとずれ、やがて星の朝が来る。
差し込んだ陽の光が、散らかった部屋の輪郭をはっきりと映し出す。
欠伸をしながら、洗濯機のスイッチを押した。

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