お供えの丁度いい距離感
お寺にはよくお供えが届きます。
お参りされた方がご自身で持ってこられるケースもあれば、お中元やお歳暮ということで長いお付き合いのある方が郵送されるケースもあります(いつから送られてきているのかわからずそもそもどんなお付き合いなのか誰もわからないケースもしばしば)
お供えとは、仏様にささげるものです。だからお付き合いのきっかけはお寺の僧侶であったり職員の誰かだったりしても、その個人への贈り物という「色」は消え、その方とお寺というつながりに収斂します。
何かお詫びをしたいとき、お礼をしたいとき、その思いをダイレクトにちゃんと表現しようとするとき、人対人のやり取りになることが一般的です。
とはいえ、その思いが弱まったら贈り物のやり取り自体が消えてしまう。
これがお供えという形をとると、お供えする側はだれか個人に向けてではなくより大きな何かに対して捧げる感覚がうまれます。贈り物をすることへの自負というか、「してやった」という感覚が弱まる。
受取る側は、自分個人に対してではなくより大きな何かに対して感謝する感覚、おそらく謙虚に近い感覚を覚えます。「いただいた」ということに対する負い目が弱まる。
仏様を仲立ちしたもののやりとりは、贈り物をめぐる上下関係をいい具合に和らげてくれるのです。
職員が旅行のお土産を直接配りあうのではなく、一度仏様にお供えするのは、自然と
お互い様
の感覚を生んでいるように思います。
何かとエスカレーションしがちな現代において、なんだか素敵な距離感ではないか、、
もはやだれのお土産かお供えかわからない羊羹をいただきながら、そんなことを思っています。
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