勝手に救われている話。

こんばんは、焼却炉です。なかなか着ないテイストの服を個人的に上手く着れた時に何回も鏡を見てにんまりとしてしまう癖いい加減やめたい。

さて、今日も徒然なるままに思ったことを書き連ねていきたいと思います。


救いの言葉なんてものは存在しないということ。

私の推しの1人に赤髪のお坊さんがいる。最近そのお坊さんが所属しているグループのとある曲を聞くのだが

「救いの言葉に興味はねぇな」
「悪いが神や仏じゃねぇんだよ」

という歌詞がある。なんだかそれが一番私の脳裏から離れてくれない。

人間は救いの言葉を求めがちで、しばしばそれがまるで誰かが与えてくれるようにそれを期待してしまうけれど、本当は普段ならどうってことのない言葉を都合よく取捨選択して、救いの言葉認定をして、勝手に救われているのだと思う。以前、神様はきっといる、なんて話をしたけれど、そうやってどこかの誰かが神様を増産しているのだなぁと思う。


救いを与えられるのは自分自身ということ。

苦しい時に限って、何だか誰の言葉も自分を理解してくれない、と感じてしまうことはままあるけれど、その時きっともう自分の中で救いの言葉は決まっていて、けれどそれを他人から言ってもらうことでしか、その価値が生まれないと思っているから必死にそう言ってくれる人を探してしまう。でもそうしたところで、都合よく、たまたまその言葉が目の前にあっただけで、その人がいつだって自分を救ってくれるとは限らない。
そして、自分が他人に救いを与えられるとも限らない。

自分が誰かを助けてあげるなどという傲慢はそこかしこに転がっている。感謝されることは気持ちのいいことで、承認欲求だって満たされる。でも、それで他人を分かった気になって言葉を発するようになったとしても、その言葉ははりぼてのようになって、価値はなくなっていく。たまたま発した言葉だから、自分が思った事だから、誰かに刺さったのであって、助けてあげようなんていう傲慢では、救えないし、救われない。

刺さる言葉は時と場合が大いに関係する。

言葉の濁流の中で生きている人間は、どれほど多くの言葉をゴミ箱に捨て、どれほどの言葉を宝箱にそっとしまったのだろう。今思い返せば、捨ててしまった言葉の中に、大切な言葉があったかもしれなくて。大事にしまった言葉の中には、もう色褪せてしまった言葉もあったかもしれなくて。その言葉が救いになるかどうかなんて、その時間、その場所、その状況が作り上げた幻想がどれだけ素敵に映るかで決まるのだから。それなら、別に誰かを助けようとなんてしないで、傷つけないことだけは注意しながら、自分の好きなように言葉を伝える方が、きっと誰かの救いになるのだと思う。

あの時の傲慢を戒めにして、好きなように言葉を紡いで、誰かが勝手に救われる助けになる事を祈って。

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