自給自足は難しいということ。

こんばんは、焼却炉です。注射嫌いすぎて見ないように顔を背けた状態で採血に臨もうと思ったら体勢も採血のしやすさに関わってくるとのことで真正面向かされたので目を瞑るしかなかった。採血されてる時の時間は永遠のように感じられる。

今回は自己肯定感の話でもしようと思う。


鏡がないとものさしではかるのは難しい。

よく「人のものさしで自分をはかるな」的な言葉を目にする。まぁ、確かに自分のことを決めるのにいちいち他人の意見を気にするのは時間を浪費したり、心を浪費したりすることではある。でも、例えば自分の目の大きさだとか、身長の高さだとか、そういったものを一人ではかったとして、その数値を自分の目で直接見る事は叶わない。自分の視野の中にそのものさしが入らないから。一人ではかるには鏡が必要だ。自分を客観的にみることのできる鏡が。

「自分」という存在をはかるときにだってそう。他人が鏡の役割を果たしてくれる。

「あの子と比べて目が小さい」「あの子と比べて身長が低い」「あの子と比べて…」

と見た目を誰かと比較することなんて当たり前の世の中で。やらない方が難しい。


同じ穴の狢ということ。

見た目だけではない。その人の持つ人格ですら「他人」という鏡は鮮明に映し出してくれる。結局何かしらが同じレベルでないと一緒に居る事は難しい。全くそりが合わない人と仲良くすることより、何かしら気が合う人といる方が楽だから。それは当然のことなのである。前より合わなくなってきたなと思ったら、それはきっとレベルが変わったのだろう。どちらのレベルが変わったのかは知らないけれど。


人を人たらしめるのもまた人ということ。

この世にヒトという種が一匹しかいなかったのであれば、コミュニケーションなんて必要なくて、ただただ一匹で繁栄もせず、どうにかあがいたとして、死ぬだけだと思う。けれど現実ではヒトという種は多く居て、貧弱だったからコミュニケーションをとる必要があって、そうして人間になって、国こそ分かれ、言葉も分かれたけれど、他人とコミュニケーションを取らなければ基本的には生活できないこの世界において、「人のものさしで自分をはかるな」など到底無理な話なのである。だって、誰かと比較しないと自分を形作る事なんてできないから。世の中で「個性」という名称で蔓延っているものも、他人と比べるから生まれるものだし、性格だって他の人と比べてこの部分がこうだから、こうだよね、と定義されて、キャラクターが出来上がっていく。自分一人では透明人間のままだけれど、他人からラベルを貼ってもらうことで人としての形を保っているから人間でいられるのだと。ただ、他人から貼られたラベルを全部つける必要はない、ということで、気に入らなければ剥がしてゴミ箱に捨ててしまえばいい。そのラベルが貼られることで人間としての形がゆがむのであれば、一部が透明に戻ったとしてもない方がいい。そのラベルを選別できる力をつければいいのだと思う。

ただ嫌なラベル程、ア○ンア○ファでくっつけたみたいに取れないものだけれど。剥がれる日を願って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?