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常に自分を見つめないと進めない

私ごととして、スピリチュアルな事を活動に生かすきっかけになったのは、自分自身がどうにもならなくなった経験から。


自分がどうにもならなくなったから自分自身をどうにかしなくてはいけないと、仕事を辞めて劇団に入ることから始まった。

大人になってから劇団に入ることで、自分の扱いというのを学ぶことができた。

小学生に交じってダンスしたり、日舞を学んだりと、自分自身の扱い方を改めて学ぶことは、それまでの人生でどれだけ自分自身の扱いということを、考えずにいたかを思い知るということになる。

夢中になって自分を表現することについてしっかりと学び、そこで、いわゆる芸能界で活躍する誰もが知るスターと仕事をさせていただくこともあって、自分を扱う事がどれほど楽しい事か、そしてそれを極めて楽しむことがどういうことかを目の当たりにした経験はとても興味深かった。

スターのオーラやエネルギーがどこから来るのか、仕事でご一緒させていただくことで知ることができる。

それから自分自身の「私のやり方」を追求していく流れは加速していき、自然と劇団を辞める流れとなり、気が付いたら世界のパワースポットを回るようになっていた。

そうなってからも自分自身を見つめることはクセにすることができておらず、結局忙しさに自分を没入させてしまい、外側にあることに意識を奪われ、やらなくてはならないことに集中しすぎてしまう事からはなかなか逃れられなかった。

その後チャネリングのレッスンを受けて、ヨガの練習や瞑想の練習をして、さらに自分自身を見つめることを身体に叩き込むトレーニングしていくことで、やっとの思いで自分自身を見つめることが、生活と同時にできるようになってから、自分がPTSDであるということに気付くまで、これまた時間がかかった。

マルトリートメント(虐待)的な厳しいしつけによるPTSDは、社会生活で様々な形で影響を及ぼし、それは記憶や集中力という脳の働きにも大きな影響を与えることは身をもって知っている。

しかし自分を見つめることをクセにするうちに、これまで思い出さないようにしてきた記憶に繋がることができるようになり、思い出すことができるようになると、その記憶の断片を拾い集めるのと比例するように現在の現実に対しての認知の広がりも生まれてきます。

チャネリングのレッスンでも、リサロイヤル氏は、自分のかけらを取り戻すことが大切だと教えてくれた。

記憶に蓋をしていた時には、トラウマ的な体の反応や感情や心の反応というものに翻弄されることが多かったので、自分でもどうしてそのように行動してしまうのかコントロールすることが難しかった。

今はコントロールすることができるよになり、それと同時に自分自身の認知、認識というもの広がり、自分が何者で何しているかがはっきりとわかることができるようになる。

これまでできなかった現実への対応というものにも、自分の考えで出来るようになり、それはまるで自分でいることに自分が許可を出すようなものであることだったから、これが自分の意思を許すということか!という実感を持った。

これまでは、自分でいてはいけないとしてきたような感覚があった事に気付き、今はそれを自分でいても大丈夫と言い聞かせている。

これは、決して自分を励ますというような感覚とは違い、もっと力強く自分にしっかりしろ大丈夫だから!と言い聞かせるような感じ。

そうしないと、パニックを起こし、気が動転してしまいそうになるから。

そして、自分に自分でいることをやらせていくと、当然色々なことが起こる。

奥さんには、自己主張をするようになり、そうなるにあたって様々なことを説明することが出てくる。

人間というのは面白いもので、こちらの精神性が変化すると、近所の人や社会でコンタクトする人の反応も変わってくる。

これまでに想像するような、反応の悪さはなくなり、社会が自分を嫌がっていないと思えるような感じられるフィーリングを受け取るようになる。

私は昔から外を歩く時はびくびくしていたし、警戒心が目つきも顔つきにも雰囲気にも現れていた。

学生時代はがん飛ばしたとか言われ絡まれることも多く、社会の反応が攻撃に溢れている人生だった。

おびえていればおびえているほど、社会の反応が攻撃的になるという悪循環の人生を数十年過ごしてきたから、その緊張感たるや、俺は強い!と思えるほどだ。

生きる力があっても、気を付けないと心は悲鳴を上げる。

そして躁鬱となった。

まあ私の場合は全て自分で理解し、自分で対処してきたので、医者に診断を受けたわけではありません。

おじいちゃんの影響もあるのですが、医者というものを信用していないところがある。

そんなストイックさも自分を厳しくする要因の一つでもありましたが、とにかく世の中のものは基本信じず、自分で何とかする傾向は非常に強い。

それでも何度か精神科に行ったことはあるし、虐待の保護団体の会合にも参加しましたし、宗教団体にも入った。

試しに。

一通りの精神世界の探求は、やってはいるのですが、最終的に自分自身で取り組むことが前提になるのだろうと経験を通して思う。


日本人が自己主張できないという問題は、今日本社会が抱えている問題の根底にあるものです。

人ありきと謳う会社は、昭和の時代からあったが、その実情は、自分を置き去りにした社会貢献への意識となって、システムとなる。そして心は荒んでいきやすいし、格差と権威主義的になる。

本来の社会貢献は、自分がやりたいから成立するのであって、自分が無いのだから、自分のやりたい社会貢献なんて自覚は持てるはずの無いものとなり、お金稼ぎ中心の発想であることは否めない。

本当に、社会貢献をして、経済活動をしていくことこそが、楽しい経済活動であることは間違いないから、そのためには、人一人一人が、自分のやりたい事として、他人への貢献を目指す時何が必要であるかを考える必要があるのだが、一部の人は考えていても、大半は搾取的にコントロールされていく。


自分を上手く使って行く、そこにやりがいがあるというもの。

この間テレビで、日本の徳島の女子高生がアメリカのスタンフォード大学に入学が決まったことを扱っていたが、この女子高生を面接したスタンフォード大学は、彼女には来て欲しいと言っているらしい。

彼女が感じたのは、日本でスタンフォード大学に行くにあたって身近な人を説得することからはじめたことが一番壁だったと言っているが、そんな経験普通の高校生ならする必要もない事であるだろうと思ったと、友達と自分を比較して悩むほど取り組んだのだろうと思う。

現在の日本を象徴するような話しだったのが印象的だった。

これこそ自分ありきで進める人生の進め方なのだろうと、これは勿論スタンフォード大学に入ることが素晴らしいという話ではなく、自分というものを扱うということを通した目標達成という点で意味ある話しだ。

そして、この点が日本ではつまらなくなることが多いことは事実だし、アメリカに面白みを見出したということを、この女子高校生はメッセージしていると受け取った。

一人一人がこういう意識に目覚めていくことで、新しい経済活動の基盤は作られていく。つまらないを楽しいに変えていくことになるのポイントで、自分、そして他人、そこを勘違いしないようにするということでもあると言える。

自分と他人を勘違いしない。

これは、自分を見つめるということにおいてとても大切な視点で、自然と起こる視点の変化だし、自分って自分だけでは見えて来ない、他人を見ているだけでもダメ、自分と他人を勘違いしない事によって見えてくるものこそ「自分」という認識でしかないし、しかも、自分というもの、正解は無いし、でも可能性はシッカリあるというのものでもある。

自分と他人、主体と客体を勘違いを無くす作業なのだということが、見えてくると、精神正解って本当に僕みたいな、変な人間が取り組む世界なのであると、わかってくる。

だって、しっかりとまともに生きていて幸せな人ってたくさんいて、その人たちが精神世界のことを、知っているかと言ったらそうとは限らないわけだ。

こんがらがってしまう私みたいな人は、勘違いを起こしやすい人生を何でか選んできてしまい、だからこそ、こんがらがった意図を一生懸命ほぐすしかなかったというだけで、先ほど紹介した女子高校生は、若い10代にしてそこに取り組めているのだから面白い。

他にもたくさんの可能性を紡ぎだしている若者がいるけど、本当に世の中こんがらがらない人もいるわけで、こんがらがってきた僕には幸せ一つ見つけ出すことも困難だった。

自分で幸せを避けているのかと思う程。

でも結構自分に夢中になっていると、それは同時に他人に夢中になるということでもあって、それは宇宙に夢中になるということでもあるという人生で、それも捨てたものじゃないとは思える。

人生に意味があるとすれば、こんがらがることを、整理するためなのかもしれないと思うぐらい。

安心して解きほぐしていったらよいのだと思う。

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