見出し画像

読書した記憶をつかって解釈と物語を組み立ててみる。

内田樹さんの「日本宗教のクセ」で、外部からきたものを混ぜ合わせてしまうのが日本型宗教のクセのようなニュアンスで書かれていて、

これは日常でもとても共感する事が多い。

音読みと訓読み。あとなんだろう。いざ考えるとあまり出てこないが、私たちの日本の日常にはパターンの例外が多い。これは肌感で共感してもらえる気がする。

all or nothing、01ではないファジーなものが多くて、これはダメな文脈で語られる事が多いが曖昧耐性のトレーニングという意味だと、なかなか我々の生活に活かされているのではないだろうか。社会性の基礎トレーニングみたいなもの。

言語や状況。これらを混ぜ込む。新しい言語や状況をつくる。新しいものが生まれる。定義が曖昧な分、このサイクルが速いのではなかろうか。だからマンガみたいな独自の文化が生まれやすかったり、トヨタのカイゼン、高度成長期の爆伸びみたいなところにつながっているのかと思ったりした。ただこれって素材を混ぜ込む話なので、素材なしの0→1みたいな作業は不得意みたいなところにつながるのだろうか。

山口謠司さんの「光と闇と色のことば辞典」を見ていると、太陽、月、空、自然、色、昔の人はカテゴリをかなり細分化して言語化して表現している。シンプルに美しい。

見ていて琴線に触れた言葉は、水月、春光、閃火、春風駘蕩、赫赫、燦爛、仄明かり、夜天光、紅焔、金烏玉兎、東雲、碧空、碧落一洗、光炎万丈、可惜夜などなど、パッと思いついた限りでも、同じ太陽でも月でも光でも言語が無数にある。

侘び寂びというか情緒というか、ちょっと触れただけでも、細かい所作とか感性の豊かさが遥か上なのがわかる。

今と比べて情報も刺激も状況変化も少なくて、電気もないので陽が登れば起きて、陽が落ちれば寝る。こういう自然に沿って暮らしていた人と、昼夜なしの現代人だと物事の見え方は全く違うだろうし、感性や考え方も違うよなと。価値観も相当違うのは当たり前で、我々は情報を浴びていて面を広げていく感性は磨かれてるんでしょうけど、一方トレードオフで点を突き詰めていくような感性は失われていっているんだろうなと。

そういう意味でスポーツに打ち込むとか、読書に励むというのは、点の感性を磨くのに優れているのかなとも思う。瞑想とかサウナが流行っているというのもその辺不足の点も面も大事というアラートなんでしょう。

佐宗邦威さんの「じぶん時間を生きる」で、社会で働くというのは、眩い明るさの中で、価値の明るさを競い合うから、自分の小さな光を見失いがちになる。のようなニュアンスで書かれていて、

特に明るさや光。

これは情報や刺激の量といえて、

ここを上手くマネジメントできるかどうか。これは生きていく上で必要な能力に格上げされてきているように思う。

競争の中では、エンドレスに輝かなくてはならない。それはそれで面白いけども、つまらないとも思える感性のアップデートは生存競争として必要になるように思う。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?