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悪くはない日々と、最良の日の相違

今朝、ふとこのタイトルが浮かんだ。

自分自身、悪くはない日々を送っていると思う。

とても裕福なわけではないし、たまにしか贅沢はできなくとも、

日々暮らしていくには不自由しない。

めちゃめちゃ多忙な仕事環境でもない。

残業も少ない、職場もいい人しかいない。

しかし、それでも、この日々が最高であるとは、言い切れない自分もいる。

それなりに幸せな日々と、最高の日の違いは、どこにあるのか。

仮に「こうなればいいな」というポイントが全て実現したならば、最高の日になるのだろうか。

天気の良い、青空がどこまでも続く晴天の日に、デスクワークをしている自分に勿体ないと感じたとする。

そんな日に、会社を飛び出して、海岸に出かけることができたなら、

確かにより良い1日に近付くだろう。

座りっぱなしで、体を動かしたいと思った瞬間、

運動着に着替えて、ランニングに行けたなら、

きっと人生の満足度は向上する。

何かを思った瞬間に、それを実現できる自由があるか。

その瞬間の選択を、自由に選ぶことができたなら、より良い日々が送れるのだろう。

そうであるならば、最高の日とは、イコール自分の自由に過ごせる日になるはずだ。

だが、これは少し違う気がする。

制限があるから、ある程度の枠があるから、自由や解放を望む心が生まれるのだと思う。

誰よりも自身を縛りやすい俺だから、誰よりも自由を望むのかもしれない。

その証拠に、存分に自由な時間を与えられると、逆に持て余してしまったことがある。

時間があっても、お金がなくては時間を最大限活用できない、と感じた経験もある。

お金を使って自分の好きな服を買ったり、旅行に行ったり、美味しいものを食べるのも素敵だが。

消費ばかりの生活よりも、自ら生み出すクリエイティブな時間に、より充実感を覚えることもある。

そう考えると、要はバランスの問題なのかもしれない。

晴れた日には外に出たいと思うが、それを毎日求めるわけじゃない。

むしろ、晴れた日にデスクワークしなければいけないという制限が、より外に出たいという欲求を喚起する。

制限が、自由を渇望するスパイスになる。

そこが見えると、自分の欲求をいかに満たすかが、より詳細に見えるかもしれない。

より刺激を得るためにも、心からの解放感を得るためにも、適度な制限をスパイスとして活用することができる。

冒頭に戻ろう。

悪くはない日々と最高の日には、それほど大きな違いはないのかもしれない。

というか、悪くはない日々や、むしろ最悪な日々が、最高の日を創出するお膳立てをしているのかもしれない。

そう思うと、最高の日はもちろん、悪くはない日々にも大きな意味がありそうだ。

我ながら、なかなか良い結論じゃないだろうか。

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