見出し画像

ザリガニの鳴くところ ー しんすけの読書日記

読み始めにかなり時間がかかってしまった。こうした経験が最近よくある。
この半年で3回以上あったのではないだろうか。それには共通したものがあった。これについては後に語ることになるだろう。

「一見に如かず」という言葉があるが、現実は「一見は偏見に充ちる」と思うことが多い。この物語の主人公も偏見の中で成長せねばならなかった。

ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』

湿原で一人で暮らす少女カイアの物語である。
6歳かから始まり23歳までに及ぶ。悲劇だが12歳くらいで少し希望が観えてくる。テイトという年上の男友だちができたからだ。

でもそのテイトからも形の上では裏切られる。だがテイトが字を教えてくれたことが、少女の未来を約束してくれていた。

23歳になったカイアは殺人犯として囚われる。
かって結婚の約束までしていながらカイアを裏切ったチェイスを殺したという罪で。
ここからは推理小説のような面白さも出てくるが、本書の魅力はもっとほかのところにある。
人間の信頼とは何かと問われているような、そんな読書だった。
傍聴席も検事や保安官も、カイアを初めから信じてはいない。確定的なアリバイが出てきても自分たちの憶測を優先する。それはカイアが貧乏人だからだ。
五十年前の南部アメリカのことと、他人ごとのようには観ることはできない。現日本だって存在しない在日特権をあるものと一方的に信じてヘイトスピーチに勤しむ者が多いことを、顧みればわかるだろう。
逆に資料が多い731や南京事件を無いものとする日本人が多いことも、考えねばならない。
最後のページを閉じるとき、読者はカイアに裏切られた気持ちになるのだろうか。ぼくはならなかったと付け加えておこう。

冒頭で、読み始めにかなり時間がかかったものがあると書いた。読書録を観たら下記の三点であることがわかった。

志坂圭『滔々と紅』
トニ・モリスン『青い眼がほしい』
桐野夏生『砂に埋もれる犬』

いずれも子供の虐待のようなことが扱われている。子供に恵まれなかったせいなのか、子供が悲しむ姿は辛すぎる。

ウ・ヨンウ弁護士の第六話「私がクジラだったら」も途中までしか観ていない。母親から引き離されて泣く女の子を観てるのが辛くなってしまったからだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?