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しんすけの読書日記 『青い眼がほしい』

若い黒人女性の様々な生態が綴られている。苦しく哀しくてならない物語だが、そんなことは気にせず読み進むことができる。
トニ・モリスンの筆致は誰を恨むでもなく、淡々と綴られているからに違いない。

だが読み始めた当初は、なかなか先に進むことができなかった。遅々たるもので読み終わるのに数か月かかるのでないかとさえ思ったものだ。読みにくくも感じていた。翻訳が悪いようでもないのだが。

一冊の本にこんなに長い時間をかけたのは、ボードレールの『悪の華』以来ではないだろうか。それで気が付いた。小説として読もうとするから読みにくさを感じるのではないか。それぞれの女の描写を詩として読み取っていけば良いのかもしれない。

それは正解だった。

下記なんか、セックスシーンの描写だが、ポルノグラフィでなく美しい囀りのように聴こえてきた。

わたしは、彼の胸にしっかり顔をすりつけて、胸の毛がわたしの肌を刺すのを感じたい。わたしは、その毛の茂みがちょうどどのあたりからまばらになっているか――へそのすぐ上だ――、また、どういうふうにふたたび濃くなって広がっているか、を知っている。たぶん彼はほんの少しからだを動かして、脚がわたしに触れるだろう。さもなければ、彼の脇腹がわたしのお尻をほんの少しかするのが感じられる。わたしはまだ動かない。そのとき、彼は頭を上げ、寝返りをうって、わたしの腰に手を置く。わたしが動かなければ、彼は手を回してわたしを引き寄せ、お腹をもむ。やさしく、ゆつくりと。わたしはまだ動かない。続けてもらいたいからだ。眠ったふりをしたまま、お腹をさすり続けてもらいたいのだ。そのとき、彼は頭をかがめて、わたしの乳首を噛む。するとわたしは、もうお腹をさすってもらいたくなくなる。両脚の間に手を入れてもらいたいのだ。それで、目がさめたふりをして、彼のほうを向くが小脚は開かない。彼に開いてもらいたいからだ。彼は開く。そして、彼の指が強くはげしく触れるところで、わたしは柔らかく溶け、濡れてくる。いままでにないほど柔らかくなる。わたしの力はみんな、彼の手のなかにある。脳髄は、しおれた木の葉のように縮みあがってしまう。手のなかには、おかしな、からっぽの感じがある。何かをしっかりつかみたい。それで、彼の頭を抱く。彼の口がわたしの顎の下にある。それから、両脚の間に手を入れてもらいたいという気持ちがもうなくなる。自分のからだが柔らかく溶けさっていくような気がするからだ。わたしは両脚を伸ばして開き、彼がわたしの上に乗る。支えるには重すぎるが、同時に軽すぎて支えないではいられない。彼は、彼のものをわたしのなかに入れる。わたしのなかに。わたしのなかに。わたしは足を彼の背中に回して包みこみ、彼が逃げられないようにする。

『青い眼がほしい』ハヤカワepi文庫 p192-193

それでも読み終わるには二十日以上かかってしまった。各掌編の余韻を味わいながらの読書だったからだろう。

『青い眼がほしい』ハヤカワepi文庫

トニ・モリスンは読書メータで『三人の逞しい女』で頂いたコメントで初めて知った作家。でもノーベル文学賞受賞者だった。
ノーベル賞なんて今じゃ大安売りされているようで、賞としての実感が湧かない。だから気づかなかったのかもしれない。
ファインマンが受賞したときは感激したけど。もう五十年以上も前のことだ。

『青い眼がほしい』がアメリカの読者に迎えられたのは、ノーベル賞とは関係なかった。オープラ・ウィンフリーがトークショーで取り上げたことが迎えられるきっかけとなったのだ。
それは分かる。芥川賞や直木賞を取ったって、食指が沸かない本も多いから。

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