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夏 第448回 『魅惑の魂』第2巻第3部第128回

 朝になり起きはじめたマルクに、昨夜のことが恐怖の噴流のように甦えった。まだ母親に会っていないことも彼には気になった。いつもの朝は、母が部屋までやってきて朝の挨拶のキス(彼はそれが嫌だった)をしていた。今朝は彼女は部屋には来なかった。しかし隣の部屋からは、彼女が行き来しているのが聞こえていた。彼はドアを開けてみた。彼女は床にひざまずいて家具を拭いていて、振り向きもしななかった。マルクがお早うお挨拶すると、彼女は微笑みを宿すような眼で彼を見上げながらこう言った。
「おはよう、坊や」それだけを言うと、彼に構うことなく仕事をつづけた。彼は彼女が昨晩のことについて尋ねてくれるとばかり思っていた。彼自身は、それを聞かれることが大嫌いだった。だが聞かれないとなると、気に障ってきた。彼女のほうはもう自分の部屋に行き、片付けをしてから、着替えを済ませていた。家庭教師として出かける時間が迫っていたから、彼女は出かける準備をしていた。彼は、彼女が鏡に自分を顔を映しているのが見えた。彼女のまぶたには隈ができていて、まだ疲れているようだったが、彼女の目には光があった!… そしてその口元には笑みがあった。彼はおどろきもした。彼女から悲痛の表情を見るのでないかと、彼は思っていたからだった。そうであれば、心で彼女に同情をかけけるつもりさえあった。これには彼は当てを外れてしまった。そのために少年の論理が苛立たされてしまった…
 だが、アネットは彼女の考え方を持っていた。「心が思い浮かべるものには、心そのものの理由がある…」、それを知っているのは、理性の上にさらにある理性なのだった。もうアネットは、他の人たちが何を思っても気にはならなかった。今の彼女は、他人に自分を理解してもらうことを望む必要がないことを知っていた。もしその人たちが愛してくれても、それは眼を閉じているときにすぎない。それにその人たちが眼を閉じるなんて、ほとんどありはしない!… 「彼らは好きにすればいい! 彼らが何であっても、わたしは人間が大好きなのだ。愛せずにはいられない。もしも、その人たちがわたしを愛してくれなくたって、わたしは、わたしのなかに十分な愛を持っている。わたしのためにも、その人たちのためも…」

つづく

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