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夏 第437回 『魅惑の魂』第2巻第3部第117回

 自分で書いたこの愛しい名前を観ていると彼は泣きだしてしまった。泣き声がほかに聴こえないようにハンカチを口に押し当てた。涙を拭うと遺書を読みかえした、そしてさらに深く考えはじめていた。
「ぼくが死ぬことで彼女に迷惑をかけてはいけない… そうなんだ」
 そう思った彼はそのページを破って書きなおし始めた。追い詰められた必死の気持が、燃える火薬の球になって飛び立った。
「女は愛すること知っていない」の後に、こう続けた。
「ぼくは知っていた、それだからぼく死ぬんだ」
 彼は苦悩の抱きながらもこの言葉に満足を覚えた。それが彼を大きく慰めた。だから彼の後に生き残る人たちも親愛できる、そうした変化が生まれていた。そして寛大な気持ちで彼はこう締めくくった。
「ぼくは、あなたたちみんなを許します」
 彼は署名を入れた。あと数秒もするとすべてが終わってしまう。それが彼の救いとなる。そうして彼が期待する素晴らしい結果が生み出される、彼はそう創造するのだった。
 だがその署名は、インクのつきがあまり良くなくて消えてしまいそうだった。その子供っぽい署名に上に彼は何度も手を加えていた。そのときだった、彼の背後で突然にこの小部屋のドアが開けられた。彼は武器と遺書を急いで隠した、それはどうにか腕の下に隠すことができた。だが辞書の上に置いた鏡はそのままになっていた。アネットはその鏡を見て、マルクがアナルシズムに浸っていたのだと思った。彼女は何も言わなかった。彼女はひどく疲れていた、疲れ切った低い声で、マルクにこう言った。「夕食の牛乳を買い忘れたから、それをあなたが買いに行ってくれないかしら? 五階の階段を何度も昇り降りする手間をあなたが省いてくれたら、とても助かるんだけど…」 そのとき、マルクは腕の下に隠したものを見つからないようにする、そのことだけに懸命だった。だから「今は他にやることがあって、それはできない」と答えてしまった。アネットは淋しそうに笑みを浮かべ、ドアを閉めて出て行った。

つづく

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