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夏 第438回 『魅惑の魂』第2巻第3部第118回

 マルクに母がゆっくりと階段を下りていく音が聞こえた… (母を傷つけてしまった)… 彼は後悔の念に襲われてしまった。彼のなかに疲れた母の表情が残っていた… 急いで拳銃を引き出しに投げ込み、重ねた本の彼の「生よさらば」を押し込むと、部屋から飛び出した。階段で母を押しのけると、買い物は自分が行く、仏頂面でそう叫んだ。アネットは心が少しだけ軽くなった、そして階段を昇っっていった。あの子は見かけほど悪くはないのだ、彼女はそう思った。しかし見た目の粗暴さや不愛想なところは、彼女をまだ苦しめていた。神様! 彼はどうしてすぐに優しくなれなかったでしょう!…  でも、その方が彼にとっては良いのかもしれない! 可哀そうな子だけど、彼なり生き方をすることで、人生の苦しみを少なくすることもできるのかもしれない…
 マルクは家に戻ったときには、自殺を望んだ自分の気持ちを完全に忘れていた。机の上に隠したとは観えないあの「遺書」を見つけても何の喜びすら感じなかった。慌ててそれを引き出しの中に隠してしまった。さっきまであったあの自分を抑圧した考えを捨ててしまいたかった。母の健康を気にかけているのに、母に対して残酷で卑怯な仕打ちをしてしまった。それが今になって、不器用ながらも気にかけている自分には気づいていた。 …だが彼は彼女にどう話せばいいのかは判らなかった。そして彼女のほうもどう答えて良いのかも判らなかった。それは見当外れの自尊心が招いたもので、本当の自分に感情を表に出すことを躊躇(ためら)った結果でしかなかった。不機嫌だが礼儀をつくす義務を果たしている、彼はそう観えるのだった。そして彼女も自尊心があまりにも強すぎた。彼に心配をかけたくない、彼の邪魔をしたくない、そういう気持ちが会話を逸らすのだった。そうして、ふたたび二人は沈黙の日常に戻ってしまった。またマルクのほうは、一つの心配から解放された気分でいたためか、母のために自殺を捨てる犠牲を払った、そう思うようにさえなっていた。それが、彼にとって母を恨むために一つの理由になると信じ始めていた… 自分には自殺をするきもとなんかまったくなくなっていることも、よく知っていた。ところが彼は、自分が苦しんだことに対してどこかに復讐する必要があることを感じていた。それは他人に対してはできない。それならば、母を相手に復讐することになる。母はいつもそこにいて、彼の手下にいる、だがその母は何も言おうとはしていない。

つづく

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