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夏 第440回 『魅惑の魂』第2巻第3部第120回

 だがアネットには、マルクのなかでそうした変化が起こっていることを、当然にして知ることはできなかった。そしてマルクに思いが通じない責任のすべてを自分に帰してしまうのだった。それはアネットがマルクと同様の熱情の持ち主だからでもあった。階段を下りていくにつれてマルクに笑い声が遠くなっていた。彼女は喜んでいるマルクに声を聞きながら、彼が彼女と離れることを喜んでいる、と心を打たれずにはならなかった。彼女は彼から嫌われているとしか思えなかった。それは、彼女の熱情が多くを誇張して捉えてしまうからだ。彼女はいつもその方向に傾いてしまうのだった… マルクには、わたしは重荷なんだ。そうなのだ、明らかにそうなのだ。彼はわたしという厄を払ってしまいたいのだ。わたしが死んでしまえば、彼はもっと幸せになるのだろう… もっと幸せに!… わたしだってそうだ。そして彼女は、愚かにもわが子が自分の死を願っている、そうした考えに捕われてしまった…  (愚かな? 今のアネットのことをそう言えるのか? だれがそう言えるだろうか? どんな親思いに観える子どもでも、その心の一瞬の錯乱で、母の死を望まなかったことがない、そう言い切れることが一つでもあっただろうか、母の死を?…) アネットの鋭(するど)すぎる感覚から生まれたこの恐怖、それは今の彼女には大きすぎるものだった。疲労に打ち砕かれながらも生に縋りついていた彼女だったが、そこに彼女の感性が生みだした恐怖は、致命的な打撃だった。
 情熱… いやさいなむ熱はその一日中に何度も繰り返して恐怖を登場させていた。彼女はついに打ちのめされてしまった。それは一つの決断が下されたかに観えた、すでに取り返しのつかないところまで進んでいるとしか思えなかった、彼女には、内心からの敵の攻撃に耐える力はもう残っていなかった。敵は洪水のように押し寄せてきた。

つづく

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