見出し画像

夏 第441回 『魅惑の魂』第2巻第3部第121回

 彼女はすでにその敵に同調する共犯者になっていた。彼女は敵のために扉を開けた。なにもかも失ってしまってしまった後は、人には絶望すら楽しむ権利がある。自分の苦しみは、自分だけのものであってひとに分かち与えることなどはできない。すべてを自分にものにして持つしかないのだ! 血を流せ、血を流せ、わたしの心! お前を刺して、お前が失ったものをすべて見なければならない! フィリップ…  彼はそこに、彼女の前にいた… 想像の力が強烈に蠢いていのだろう、彼女は彼を目前にしながら、彼に話しかけ、彼に触れていた… 彼、彼女が彼を愛したすべて、似たものと似ていないものの魅力、恋することと闘うことの二重の炎で燃え上がった相容れない者どうしに結びつき。抱きしめるのも闘うことも同じものだった。この幻想のなかの抱擁は、あまりにも肉欲的で激しい力を持っていた、恋に憑かれた女は白鳥の下のレのように崩れ落ちていった。情熱の激流が絶望に変って逆流した。 …そして、女の命が恋することを宿命としながら、与えられるはずの恋の分け前を拒まれる苦悩がそこにあった… それは恋とはもう縁がなくなるだろうと、女が思い始める年齢に差しかかったときの苦悩でもあった。恋が死んでいく… その夜のアネットは、息子に見捨てられた気分で一人で部屋にいた。彼女の情熱のほとんどが打ち砕かれてしまった、そうとしか思えなかった。心が困窮している、永遠に失われた愛。愛が失われてしまったこれからの生活、それ思う気持ちにつきまとわれていた、つきまとう思いが彼女の喉もとに迫ってきていた。その喉を締め付けられてる思いには一瞬の休憩も与えられなかった。追い払いはしたがまた戻ってきた。アネットは気を紛らそうとしたが無駄だった、仕事のための本を手に取ったが、すぐに投げしてしまった、立ちたり、座ったりを繰り返したがそれも無駄だった。頭をテーブルに載せて、両手で捩じった。消えない固定観念が彼女の思考力を奪ったのだろうか。気が狂いそうだった。女が自分から逃れるために最悪の異常事態に陥りかねない最悪の深淵の傍に彼女はいたのだ。理性を失いかけたアネットに、錯乱した野生の衝動が湧き上がりだしていた、街に繰り出しこの悶える肉体と心を破壊したくなっていた、身を売って自分を汚し蔑みたい、そうした願望を抱いのではなかったか。彼女は叫んでいた。自分のなかの獣に似た気持ちに気づいて、彼女は恐怖のあまりに叫んだのだった。そしてこの恐怖を呼んだ考えが、彼女を一時も放そうとしないことにも、気づいた。そして彼女は、息子と同じように、自殺することを考えだしていた。もうこの考えを自分で抑えることが不可能になってしまった、自分がそれに勝つことはできなくなっている、そう思うのだった…

*ギリシア神話の一挿話。神であるゼウスが白鳥に変身して、スパルタ王の妻のレダを誘惑した。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?